〈松平忠吉〉死因は関ヶ原の鉄砲傷だった
『慶長見聞録案紙』『武徳編年集成』など古い記録は死因を「瘡疾」(悪性の腫物)と記す。発病(1604)から死去(1607)まで約3年の闘病があり、関ヶ原(1600)の負傷から7年——「戦傷死」と単純には言えない。鉛中毒説・梅毒説・悪性腫瘍説などいずれも決め手を欠く。記録上は瘡疾。関ヶ原の傷との関係はロマンとして語られるが確証はない。
『慶長見聞録案紙』『武徳編年集成』など古い記録は死因を「瘡疾」(悪性の腫物)と記す。発病(1604)から死去(1607)まで約3年の闘病があり、関ヶ原(1600)の負傷から7年——「戦傷死」と単純には言えない。鉛中毒説・梅毒説・悪性腫瘍説などいずれも決め手を欠く。記録上は瘡疾。関ヶ原の傷との関係はロマンとして語られるが確証はない。