〈有馬晴信〉最期は切腹か、家臣による斬首か
慶長17年5月(1612年6月)、配流先の初鹿野で検使から死を命じられた。日本側記録(『当代記』等)は「切腹」「自害」と記すが、イエズス会側記録(1612年度日本年報)は「自殺は十戒に背くため晴信は拒み、妻らが見守る中、家臣に首を打たせた」と具体的に伝え、後者が有力視される。山梨の現地伝承も斬首説を伝える。なお教会側も晴信を殉教者とは認定していない — 処罰理由は贈賄と暗殺計画嫌疑だからである。
慶長17年5月(1612年6月)、配流先の初鹿野で検使から死を命じられた。日本側記録(『当代記』等)は「切腹」「自害」と記すが、イエズス会側記録(1612年度日本年報)は「自殺は十戒に背くため晴信は拒み、妻らが見守る中、家臣に首を打たせた」と具体的に伝え、後者が有力視される。山梨の現地伝承も斬首説を伝える。なお教会側も晴信を殉教者とは認定していない — 処罰理由は贈賄と暗殺計画嫌疑だからである。