〈大野治長〉片桐且元を追い落として実権を握った

且元退去(1614年10月)後に政務を主導したのは史実。だが且元排斥の中心は淀殿周辺と主戦派であり、治長自身は同年6月に家康の口添えで加増を受け駿府・江戸へ答礼に赴くなど対徳川融和路線にいた。「権力掌握」というより、且元退去で生じた空白を埋めざるを得なかったとみるのが近年の見方である。

関連

〈大野治長〉片桐且元を追い落として実権を握った | デジタル城下町 お城図鑑