〈前田玄以〉関ヶ原後も丹波亀山5万石を安堵された
慶長5年10月16日の本領安堵は確実で、弾劾状に署名した五奉行で唯一身上を全うした。理由は史料に明記がなく、(1)戦中の厳正中立、(2)子・茂勝が田辺城開城交渉に関わった働き、(3)朝廷・寺社との独自のパイプが徳川の京都支配にも有用だったこと、などが挙げられるがいずれも推測を含む。
慶長5年10月16日の本領安堵は確実で、弾劾状に署名した五奉行で唯一身上を全うした。理由は史料に明記がなく、(1)戦中の厳正中立、(2)子・茂勝が田辺城開城交渉に関わった働き、(3)朝廷・寺社との独自のパイプが徳川の京都支配にも有用だったこと、などが挙げられるがいずれも推測を含む。