〈浅野幸長〉七将事件——三成を「襲撃」したのか
慶長4年(1599)閏3月、前田利家死去の直後、清正・正則・黒田長政らと共に三成を糾弾した七将の一人であることは複数史料で確実。ただし近年の研究では「武装襲撃・追いかけ回した」イメージは誇張で、実態は家康への集団訴訟(訴訟騒動)に近いとされる。三成が「家康の屋敷に逃げ込んだ」話も後世の創作(実際は伏見の自邸ないし伏見城内曲輪へ退避)。石田三成ページの判定と整合。初出:『板坂卜斎覚書』『慶長見聞書』等。再検討は笠谷和比古・水野伍貴らの研究。
慶長4年(1599)閏3月、前田利家死去の直後、清正・正則・黒田長政らと共に三成を糾弾した七将の一人であることは複数史料で確実。ただし近年の研究では「武装襲撃・追いかけ回した」イメージは誇張で、実態は家康への集団訴訟(訴訟騒動)に近いとされる。三成が「家康の屋敷に逃げ込んだ」話も後世の創作(実際は伏見の自邸ないし伏見城内曲輪へ退避)。石田三成ページの判定と整合。初出:『板坂卜斎覚書』『慶長見聞書』等。再検討は笠谷和比古・水野伍貴らの研究。