〈石田三成〉側室を持たなかった
正室うた(皎月院)ひとりを愛したとされ、ファンに人気のポイントだが、確実な史料で断定はできない。
検証リサーチ
「〈石田三成〉側室を持たなかった」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「側室なし」と書いた古い史料は確認できず、系図から導かれた後世の推測。子孫には側室の子の伝承もあり、史実とは断定できない。
くわしい根拠
結論
「石田三成は側室(そくしつ=正妻以外の妻)を持たなかった」と正面から書いた同時代史料(三成が生きた時代の書状や日記)も、江戸時代の編纂物(後の人がまとめた記録)も、今回の調査では見つかりませんでした。三成は関ヶ原で負けた側なので、そもそも関係史料の残り方が悪く、人物像は軍記物などの編纂物で語られてきた、と研究者も指摘しています[5]。事典類の三成の項目も、行政官・武将としての事績だけを記し、妻や側室にはまったく触れません[3]。つまりこの話は史料に書かれた事実ではなく、系図に並ぶ子どもが「全員、正室うたの子」とされていることからの逆算(後世の推測)です[1]。結論は「史実とは言えない、根拠の弱い推測」。図鑑の「諸説あり」は方向として正しいものの、「古い史料に書かれていない」ことを本文で明示すべきです。
この話が最初に出てくる史料
初出とみなせる古い史料は特定できませんでした。三成の子は「三男三女、もしくは二男五女」とされ、その全員が正室・皎月院(うた)の所生だと系図では説明されます[1]。この一覧に側室の名が出てこないことが、「側室がいなかった」という言い方の唯一の土台です。ただし、記録に女性が出てこないこと自体は当時ごく普通で、「いなかった証拠」にはなりません[5]。
当時の大名にとって側室は、家を絶やさないための仕組みでもありました。だから「置かなかった」なら、それこそ珍しい話として同時代の誰かが書き留めそうなものです。ところが、そういう記述が見つかりません。逆に言えば、「書かれていない=いなかった」と読むのは危険で、女性は記録に残りにくいという史料の偏りを見落とすことになります[5]。
江戸前期の見聞録『老人雑話』(江村専斎の談話をまとめたもの)には、舞を舞う女性についてこう書かれています。「舞を舞し女に、常磐と云もの、人招けば何方へも来りけり。石田三成が息女也と云」[4]。これは娘についての噂話で、側室の話ではありません。しかも「と云(=そう言われている)」という伝聞の形です。江戸時代の人が三成の家庭をどう語ったかを示す数少ない例ですが、貞淑な愛妻家像とは方向が違います。
異説や否定説
はっきりした否定材料が三つあります。
第一に、子孫の家には「側室との間に数人の庶子(しょし=正妻以外の子)がいた」という伝承が伝わっています。ただし「いずれも史実としての確認はできない」とされます[1]。第二に、うた自身を「後妻であり、二男一女の母とする説もある」と整理する見方があります[2]。これが正しければ、残りの子を産んだ別の女性がいたことになります。第三に、子どもの人数すら三男三女とも二男五女とも定まりません[1]。土台の系図が揺れている以上、その上に立つ「側室ゼロ」も揺れます。
後世にどう語られたか
三成の人物像は、江戸時代を通じて『太閤記』系の「実録」と呼ばれる読み物の中で作り替えられていきました。研究では、新書太閤記・太閤真顕記・重修新書太閤記といった複数の系統が互いに混同されてきたことが指摘されています[7]。近代以降も、戦国武将の英雄譚がどう生まれたかは民俗学の研究対象になっています[6]。三成の妻子については、白川亨『石田三成とその子孫』(新人物往来社、2007年)が子孫を追跡し[8]、学術的な伝記としては中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)があります[9]。「側室を持たなかった愛妻家」という語り口は、こうした近年の家族史研究が広まったあと、現代の三成人気の中で強調されるようになったものとみるのが自然です。
読者が次に抱く疑問
「側室がいないと言い切れないなら、うたが唯一の妻だったことも怪しいのか」。うたが正室だったことは複数の系図・研究が一致して認めます[1][2]。争点は「他にいたかどうか」で、そこは分からない、が正確な答えです。
「三成の子は何人いたのか」。系図の伝えは一致せず、三男三女とする数え方と二男五女とする数え方があります[1]。長男・重家は出家して長寿を保ち、次男・重成は津軽家にかくまわれて杉山と名乗り、三女・辰姫は津軽信枚に嫁ぐなど、子どもたちの行方は比較的よく追えます[1]。それでも母親が誰かという一点は、系図の書き方に頼るしかありません。
「うたはいつ亡くなったのか」。佐和山落城のとき(1600年)に死んだとする伝承と、関ヶ原後も生き延びて元和元年(1615年)に会津で没したとする説が並立しています[2]。妻の没年すら定まらないほど、三成の家庭の史料は乏しいのです。
図鑑の記述への提案
- 区分は「諸説あり」でも構いませんが、本文に「この話を記した同時代史料・江戸時代の編纂物は確認できない」と一行足すことを勧めます[3][5]。
- 「側室の子がいたという伝承が子孫に伝わるが、史実確認はできない」を追記[1]。
- 「うたを後妻とし、二男一女の母とする説もある」を追記[2]。
- 「皎月院」という戒名は近年に菩提寺で贈られたものだという指摘があり[2]、呼び名は「うた」を主にして戒名は注記に回すのが安全です。
出典
- 石田三成 - Wikipedia(家系・系譜 > 子女)三成の子は系図上すべて正室・皎月院の所生とされる一方、側室との間に庶子がいたという子孫の伝承もあり、どちらも史実として確認できない。
「上記の三男三女は全て正室の皎月院の所生だが、このほかに側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。いずれも史実としての確認はできない。」
- 皎月院 - Wikipedia(冒頭定義部・「佐和山での死去に疑問を呈する説」節)正室うた(皎月院)は三男三女の母とされるが、後妻で二男一女の母とする説もあり、没年も1600年説と1615年説が並立する。
「石田三成の正室で石田重家、石田重成、辰姫ら三男三女の母(後妻であり、二男一女の母とする説もある)。父は宇多頼忠」
- 石田三成とは? 意味や使い方(改訂新版 世界大百科事典ほか) - コトバンク(改訂新版 世界大百科事典(執筆:岩沢愿彦))主要事典の石田三成の項目は検地・奉行としての事績や人物評を記すが、妻や側室など家庭生活には一切触れていない。
「三成は性格が傲慢で諸大名に対して横柄であったといい,監察的職責の遂行とあいまって諸氏の反感を買い人望を失ったため政治家としては大成しなかったが,人材を登用し,茶の湯をたしなみ,文事を解する当時第一級の武将であり,かつ豊臣氏に忠実な能吏であった。」
- 老人雑話 - Wikisource(江村専斎談・伊藤坦庵記)(老人雑話 下巻(太閤・常磐の条))江戸前期の見聞録『老人雑話』は、舞女「常磐」を三成の娘だとする伝聞を載せており、三成の家庭に関する江戸時代の語りは愛妻家像とは異なる。
「舞を舞し女に、常磐と云もの、人招(まね)けば何方へも来りけり。石田三成が息女也と云。さもありぬべし。真西山の孫女さへ歌妓となりしとぞ。」
- 石田三成佐和山入城の時期について(『洛北史学』第4号、2002年)(抄録)石田三成は関ヶ原で敗れたため関係史料の残存状況が悪く、その人物像は軍記物など後世の編纂物によって語られてきた。
「石田三成は関ヶ原の戦いで敗れたために、その関係史料の残存状況はあまりよくない。そのため軍記物などの編纂物によって語られているのが現状である。」
- 書評 橋本章著『戦国武将英雄譚の誕生』(『日本民俗学』292号、2017年)(書誌情報(p.147-152))戦国武将の英雄譚がどのように生まれたかは民俗学の研究対象であり、橋本章の同名研究書が学術誌で書評されている。
「日本民俗学 / 292 巻 (2017) / 書誌 書評 橋本 章 著 戦国武将英雄譚の誕生 及川 祥平」
- 太閤記物実録三種考(『近世文藝』113号、2021年)(抄録(英文))江戸時代には『太閤記』系の「実録」が新書太閤記・太閤真顕記・重修新書太閤記など複数系統に派生し、互いに混同されてきた。
「Shinsho-taikōki, Taikō-shingenki, and Chōshū-shinsho-taikōki have been often confused with each other because they are regarded as the different titles of the same book.」
- NDLサーチ 書誌:白川亨『石田三成とその子孫』(検索結果1件目の書誌)三成の妻子・子孫を追跡した研究として白川亨『石田三成とその子孫』(新人物往来社、2007年12月)がある。
「石田三成とその子孫 紙 図書 白川亨 著 新人物往来社 2007.12」
- NDLサーチ 書誌:中野等『石田三成伝』(検索結果1件目の書誌)石田三成の学術的な伝記として中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年1月)が刊行されている。
「石田三成伝 紙 図書 中野等 著 吉川弘文館 2017.1」
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