〈石田三成〉オトチの岩窟

敗走後、古橋村の与次郎太夫に匿われ大蛇(オトチ)の岩窟に潜み、村に累が及ぶのを避けて自ら名乗り出た——長浜市木之本町古橋に岩窟が現存し、地元で大切に語り継がれている。

検証リサーチ

「〈石田三成〉オトチの岩窟」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 88 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

古橋村での捕縛は研究でも認められるが、「与次郎太夫」「オトチの岩窟」は江戸期の軍記に出てこない地元伝承。区分は諸説ありで妥当。

くわしい根拠

結論

三成が関ヶ原の戦いのあと近江の古橋村(現在の長浜市木之本町古橋)まで落ちのび、9月21日に田中吉政(たなかよしまさ)の追捕隊(ついぶたい=追いかけて捕まえる部隊)に捕らえられたこと自体は、近年の研究でも認められています [9][8]。

しかし「与次郎太夫(よじろうだゆう)という百姓が匿った」「オトチ(大蛇)の岩窟に潜んだ」という細かい部分は、江戸時代の主な軍記(ぐんき=合戦の読み物)にも、現代の事典にも出てきません [1][2][3][6]。地元に伝わる話(伝承)として、自治体や観光団体の解説が「〜と伝わる」「〜と言われています」と書き添えている段階です [7][8]。図鑑の区分「諸説あり」は妥当ですが、本文には「伝承」だと分かる言葉が要ります。

この話が最初に出てくる史料

事件と同じ時期に書かれた記録(書状や日記)で、与次郎太夫の名や岩窟に触れるものは確認できませんでした。捕縛の場面を詳しく書くのは、いずれも江戸時代の編纂物(へんさんぶつ=あとからまとめた本)です。

江戸幕府の公式史書につく『東照宮御実紀附録(とうしょうぐうごじっきふろく)』巻十一は、こう記します。「石田三成を捕へ来りし時、、その状を尋ね給へば、三成関原の戦敗れて後、伊吹山に逃げ入り、草津の駅に出でしが、天運の尽くる所にて、折しも腹病を煩ひ出し、詮方なくて身を樵夫にやつし、弊衣を着し、腰に鎌を挟み、かくれ居りし所を捕へられしといふ」 [1]。樵夫(きこり)に化けて鎌を差していた、という点は伝承と重なりますが、与次郎太夫も岩窟も古橋も出てきません。

加賀藩まわりの記録『三壺聞書(みつぼききがき)』は、捕まった場所を別に書きます。「石田治部少輔三成は浅井郡草の谷脇坂と云ふ所の岩陰に、衣類見苦敷つゞれを着し、鎌をさし破れ笠にて居たる所へ、田中兵部家臣田中伝左衛門見知りて搦めとる」 [2]。「岩陰」ではありますが、地名は古橋ではありません。

『管窺武鑑(かんきぶかん)』はさらにあいまいで、「石田治部少輔も、彼の辺山の奥に、樵夫の姿に様を替へ居たるを、田中兵部尋ね出す」とだけ書きます [3]。

関ヶ原をもっとも詳しく書いた軍記『関原軍記大成』も、自序(じじょ=著者自身の前書き)が「正徳癸巳春三月吉日 忍齋宮川尚古書」、つまり正徳3年(1713年)で、事件の110年以上あとの編纂物です [4]。つまり、詳しい話ほど新しい本にしかありません。

異説や否定説

第一に、捕まった場所が史料ごとに違います。伊吹山から草津の駅へ [1]、浅井郡草の谷脇坂の岩陰 [2]、「彼の辺山の奥」 [3]。「古橋の岩窟」と具体的に言うのは、近代以降の解説からです [7][8]。

第二に、匿った理由と捕縛のきっかけにも別説があります。飢饉のとき三成が米を分けた恩義に報いたという説のほかに、こんな説も伝わります。「しかし他説では、三成が村人達に対し、(中略)天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成をかくまった。しかし、隣村の出身で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする」 [9]。この説では、三成は自ら名乗り出ていません。

第三に、隠れ場所の候補も一つではありません。米原市曲谷(まがりたに)の「石田ヶ洞(いしだがほら)」も、三成が匿われた炭焼き小屋の跡として伝わっています [8]。

第四に、事典の記述は「1600年9月美濃関ヶ原の戦に敗れ,逃走中捕縛されて10月1日京都三条河原で処刑された」とあるだけで、岩窟にも与次郎にも触れません [6]。

後世にどう語られたか

岩窟は実在します。「古橋の己高閣・世代閣から3kmほど行ったところに、「大蛇の洞穴」という緑色の看板が立っています」 [8]。広さは「畳2帖分」と紹介されています [7]。1999年には市立長浜城歴史博物館が没後400年の特別展を開き [5]、その研究成果が三成の逃走経路の復元に使われています [9]。

物語として広めたのは小説やテレビです。近江ツーリズムボードの解説も、司馬遼太郎の小説『関ヶ原』の会話を引いて紹介しています [7]。

読者が次に抱く疑問

Q. 岩窟があるのだから、三成がいたのは確かでは? 岩窟が実在することと、三成がそこにいたことは別の話です。三成がいた時期を示す発掘や同時代の記録は確認できず、案内も「匿われたと言われています」と書いています [8][7]。

Q. なぜ江戸時代の本ごとに場所が違うの? 山中での出来事で見た人が少なく、各家の家譜(かふ=家の記録)や聞き書きが元になったためです。図鑑にもある捕縛の様子は『田中系図』が典拠とされます [9]。

Q. 与次郎太夫は実在の人物? 江戸期の主な軍記に名前が出ず、村の言い伝えと近代の解説でしか確認できません [1][2][3][7]。

図鑑の記述への提案

  1. 区分「諸説あり」は維持でよいと考えます。ただし本文に「地元の伝承」と明記してください [7][8]。
  2. 「自ら名乗り出た」は言い切りすぎです。三成が与次郎に居所を知らせるよう説いたとする伝えと、養子が密告したとする伝えの両方があります [9]。
  3. 捕縛の日付と相手を足すと事実の芯がはっきりします。「9月21日、田中吉政の追捕隊に捕らえられた」 [9][8]。
  4. 「岩窟が現存し」は「三成が潜んだと伝わる岩窟が現存し」に。あわせて、江戸期の軍記は捕縛地を伊吹山麓や浅井郡草の谷などと別に記す、と一行添えることを提案します [1][2]。

出典

  1. 東照宮御実紀附録 巻十一(徳川実紀)― Wikisource(巻十一「三成の捕縛」「三成死を惜むにあらず」の条(典拠は岩淵夜話・鳥居家譜))
    江戸幕府の公式史書の附録は、三成が伊吹山に逃げ込み樵夫姿で捕らえられたと記すが、与次郎太夫にも岩窟にも古橋にも触れていない。
    「石田三成を捕へ来りし時、、その状を尋ね給へば、三成関原の戦敗れて後、伊吹山に逃げ入り、草津の駅に出でしが、天運の尽くる所にて、折しも腹病を煩ひ出し、詮方なくて身を樵夫にやつし、弊衣を着し、腰に鎌を挟み、かくれ居りし所を捕へられしといふ」
  2. 三壺聞書 巻之十 ― Wikisource(巻之十 関ヶ原合戦後の敗将処分の条)
    『三壺聞書』は三成が捕らえられた場所を「浅井郡草の谷脇坂」の岩陰とし、古橋とも岩窟とも書かない。
    「石田治部少輔三成は浅井郡草の谷脇坂と云ふ所の岩陰に、衣類見苦敷つゞれを着し、鎌をさし破れ笠にて居たる所へ、田中兵部家臣田中伝左衛門見知りて搦めとる。」
  3. 管窺武鑑 下之下 第九巻 ― Wikisource(下之下第九巻 佐和山落城・敗将捕縛の条)
    『管窺武鑑』は捕縛地を「彼の辺山の奥」とだけ記し、村名も匿った人物も特定していない。
    「石田治部少輔も、彼の辺山の奥に、樵夫の姿に様を替へ居たるを、田中兵部尋ね出す。」
  4. 関原軍記大成(宮川忍斎著)― 国立国会図書館サーチ 書誌情報(書誌情報「一般注記」欄)
    関ヶ原を詳述する軍記『関原軍記大成』の自序は正徳癸巳(正徳3年・1713年)で、事件から110年以上あとの江戸中期の編纂物である。
    「前附に「關原軍記大成序/正徳癸巳季春 筑州後学竹田定直序」, 「關原軍記大成序/正徳六年正月初吉筑前福岡城下 櫛田渉巨源甫謹撰」」
  5. 石田三成 : 秀吉を支えた知の参謀 : 没後四百年特別展覧会(市立長浜城歴史博物館編、1999年)― 国立国会図書館サーチ(書誌情報(著者・出版者・出版年・一般注記))
    地元の市立長浜城歴史博物館が1999年に三成没後400年の特別展覧会を開き、その図録を刊行している。
    「市立長浜城歴史博物館 編出版者市立長浜城歴史博物館出版年1999.10資料形態紙・デジタルページ数・大きさ等96p ; 20×22cmNDC289.1詳細を見る資料に関する注記一般注記:会期: 1999年10月22日-11月21日」
  6. 石田三成 ― コトバンク(改訂新版 世界大百科事典)(改訂新版 世界大百科事典「石田三成」)
    事典の記述は「逃走中捕縛」とするのみで、匿った人物や岩窟には触れていない。
    「1600年9月美濃関ヶ原の戦に敗れ,逃走中捕縛されて10月1日京都三条河原で処刑された。墓所は大徳寺三玄院。」
  7. 三成抄 第三章 ― Visit Omi(近江ツーリズムボード)(本文「再起」節)
    岩窟に匿われた話は「伝わる」と伝承として紹介され、岩窟の広さは畳2帖分とされる。
    「三成は旧知の与次郎の手引きで、三頭山中腹にある岩穴に匿われることになります。三成を匿ったと伝わる『大蛇の岩窟』は、畳2帖分の広さがあり、三成の身長(遺骨から割り出した154㎝)でも十分に立てるだけの天井高があります。」
  8. 大蛇(おとち)の岩窟と石田ヶ洞 ― 長浜・米原・奥びわ湖観光情報サイト(長浜米原観光協会)(スポット解説本文)
    米原市曲谷の石田ヶ洞も三成が匿われた場所として伝わり、古橋の岩窟も「言われています」と伝承として説明され、捕縛は9月21日とされる。
    「姉川の上流、米原市曲谷にある石田ヶ洞は、関ヶ原から落ち延びた三成が匿われた炭焼き小屋があったとされるところです。現在、炭焼き小屋は残っておらず、その部分が窪んでおり、わずかに石垣が残っています。曲谷から湖北の山を東から西へ横断した長浜市木之本町古橋には、“大蛇(おとち)の岩窟”と呼ばれる洞窟があります。集落にある寺ではすぐに見つかってしまうと、村の与次郎という農民により、山中の大蛇の岩窟に匿われたと言われています。」
  9. 石田三成 ― ウィキペディア日本語版(補助)(「最期」節および「古橋村での潜伏と与次郎太夫の義挙」節)
    三成は9月21日に古橋村で田中吉政の追捕隊に捕縛されたとされ、匿われた経緯には養子の密告とする別説もある。
    「しかし他説では、三成が村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成をかくまった。しかし、隣村の出身で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

関連