〈石田三成〉直江兼続との東西挟撃密約
挙兵の事前密約説の根拠とされた7月14日付書状は偽文書の疑いが強い(宮本義己氏ら)。連携は結果論とみる見解が有力。
検証リサーチ
「〈石田三成〉直江兼続との東西挟撃密約」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
事前の東西挟撃密約を示す同時代史料はなく、話の出所は江戸時代の逸話集。ただし挙兵後の8月からの連携は史実で、切り分けが必要。
くわしい根拠
結論
「石田三成と直江兼続が、徳川家康を東西から挟み撃ちにする密約をあらかじめ結んでいた」という話は、慶長5年(1600年)当時の書状などの同時代史料では確かめられません。この説が出てくるのは江戸時代にできた軍記物(いくさの読み物)や逸話集で、「直接の裏づけとなる一次史料は無い」と整理されています[1][2]。一方で、三成らの挙兵後、8月に入ってからの連携は本物の書状で確認できます。つまり「事前の密約」は伝承寄り、「挙兵後の連携」は史実、と切り分けるのが正確です。図鑑の区分「諸説あり」は妥当ですが、本文の根拠の書き方には直すべき点があります。
この話が最初に出てくる史料
事前協議説の話は、同時代の記録ではなく江戸時代成立の軍記物・逸話集に登場します[1][2]。研究の場で長く争点になってきたのは、江戸時代前期の国枝清軒が編んだ逸話集『続武者物語』(国立国会図書館蔵、写本3冊)[3]に収められた「六月二十日付 直江兼続宛 石田三成書状」です。この書状は文言が当時の書式として不自然だとして偽文書と評価され、そのことが事前共謀説を否定する根拠とされてきました[4]。つまり、この逸話の出発点は同時代の記録ではなく、合戦から数十年後に書かれた読み物だということになります。似た形の話は、常陸の佐竹義宣が景勝と挟撃の密約を結んでいた、という形でも語られてきました[1]。
異説や否定説
否定する側の代表が宮本義己氏です[5]。宮本氏が使ったのは、真田宝物館(長野市)が伝える「石田三成書状」(資料番号 吉047)です。三成は真田昌幸らに「この書状を携えた飛脚を、沼田から会津の景勝のもとに通してほしい」と頼んでいます[6]。挙兵から2週間ほど後の七月晦日(7月30日)になっても、三成は上杉家への確実な連絡路を持っていなかったことになり、事前の挟撃計画はなかったと論じられます[2][5]。
上杉側の史料も同じ向きです。阿部哲人氏の研究[4]によれば、家康弾劾状「内府ちかひの条々」(7月17日付)が兼続のもとに届いたのは8月3日で、景勝・兼続はその後に上方へ飛脚を出しています[1]。本間宏氏も、兼続は8月5日の時点でも三成挙兵と家康の撤退を知らなかったと指摘します[1]。上方と会津の往復には約2週間かかったとされ、連携が始まったのは8月に入ってからと結論づけられています[4]。実際、景勝が五大老・五奉行へ「家康が上洛するなら佐竹とともに関東へ侵攻する」と伝えた書状は、上方に届かず沼田で止まり真田家に残りました[7]。連絡がいかに難しかったかを示す物証です。
整理すると、否定側の根拠は「偽文書だから信じない」だけではありません。本物と認められている書状の中身そのものが、事前の打ち合わせがあったとは考えにくい状況を示している、という点が要です。
逆に、共謀説を捨てない研究者もいます。會田康範氏は1992年の「石田・上杉共謀説について」[8]で、書状が不自然だというだけでは共謀説は否定できないとし、慶長5年2月以降の短期間の調略とみます[4]。笠谷和比古氏はこの書状の文言を不自然ではないと評価し、慶長5年5月以降の連携を想定します[4]。渡辺三省氏も事前協議を主張しますが、具体的な証拠は挙げられていません[4]。
後世にどう語られたか
近代に入って、この話は「定説」のように語られました。参謀本部編『日本戦史 関原役』(1893年)は協議の時期を慶長4年閏3月の三成佐和山隠退のころと推し、福本日南『直江山城守』(1910年)は慶長4年春としました。しかしどちらも裏づけの証拠を示していません[4]。戦後は小説やドラマがこの構図を使い、「東西挟撃の密約」として広く知られるようになりました。なお、密約説とセットで語られる「直江状」(兼続が家康側の西笑承兌に送ったとされる返書)も、原本は現存せず後世の偽作ともいわれ、真贋論争が続いています[9]。宮本氏はこれを「偽文書ではないが後世の改ざんかねつ造」とみており、白峰旬氏は家康への挑戦状ではなく上杉家と堀家の争いについて公平な裁定を求めた文書だと読み替えています[1]。密約説と直江状は別の論点なので、混ぜて語らないほうが安全です。
読者が次に抱く疑問
- 密約がなかったのに、なぜ結果として挟撃の形になったのか。家康が会津へ出れば畿内が手薄になることは、当時の武将の多くが予想していました。上杉が関東へ出なかったのは、背後に伊達政宗・最上義光がいたためです[4]。
- 上杉は本当に関東へ攻め込む気があったのか。あったと考えられます。景勝が五大老・五奉行に宛てた書状にその意思が書かれています[7]。ただし届いていません。
- 「直江状」が偽物なら会津征伐の原因は何か。近年は、慶長4年からの前田利長・上杉景勝の共謀の風説など、より長い政争の流れで説明する研究が有力です[1]。
図鑑の記述への提案
区分「諸説あり」は維持でよいと考えます。ただし本文は次の3点で事実関係がずれています。
- 「7月14日付書状」という日付が、筆者が確認できた研究文献に見当たりません。宮本氏が根拠にしたのは「七月晦日(7月30日)付 真田昌幸宛 石田三成書状」[2][6]、偽文書と評価されてきたのは『続武者物語』所収の「六月二十日付 直江兼続宛 石田三成書状」[4]です。
- 宮本氏の論法は「根拠の書状が偽物だから」ではなく、「本物の書状の中身から、挙兵後も連絡路がなかったと分かるから」です。主語と論拠が入れ替わっています。
- 「連携は結果論」は言いすぎです。7月29日付で毛利輝元が真田昌幸に「景勝と申し談じたからには関東平定は見込みのうち」と伝えるなど、8月以降は西軍首脳と景勝の間で実際の連携作戦が成立しています[4][7]。「事前の密約はないが、挙兵後の連携はある」と書き分けるのが正確です。
修正案:「事前の密約は江戸時代の逸話集にしか出てこず、根拠とされた『続武者物語』所収の兼続宛三成書状は偽文書と評価される。三成が上杉と確実な連絡路を持たなかったことは七月晦日付真田昌幸宛書状から分かり(宮本義己氏ら)、兼続が三成挙兵を知るのは8月3日以降。事前密約は確認できないが、8月からの連携は史実。」
なお、日本語版ウィキペディア「関ヶ原の戦い」は同じ書状を「慶長3年7月晦日付」と書きますが、慶長5年の誤りです(同「石田三成」の記述および阿部氏の論文と整合しません)[1][2][4]。
出典
- 関ヶ原の戦い - Wikipedia(日本語版)(「合戦の経過」節/上杉景勝の動向に関する記述)三成と兼続の事前挟撃計画説は江戸時代成立の軍記物・逸話集に由来し、直接の裏づけとなる一次史料はなく、兼続が三成挙兵を知ったのは8月に入ってからとされる。
「また、上杉家の挙兵は、家康が東国に向かう隙に畿内で石田三成が決起し、家康を東西から挟み撃ちにするという、上杉家家老・直江兼続と三成との間で事前より練られていた計画に基づくものとする説がある。ただしこれは江戸時代成立の軍記物・逸話集などに登場する説であり、直接の裏づけとなる一次史料は無い。」
- 石田三成 - Wikipedia(日本語版)(「関ヶ原の戦い」関連の節)宮本義己が事前共謀を否定する根拠にしたのは七月晦日付真田昌幸宛三成書状(真田宝物館所蔵)であり、その内容から挙兵後も上杉家との確かな交信経路がなかったとされる。
「七月晦日付真田昌幸宛三成書状には「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と記されており、西軍決起後の七月晦日の段階においても、上杉家との確かな交信経路を持ち合わせていなかった点から、上杉側と三成の具体的な謀議や提携はなかったとする考察がある。」
- 続武者物語 9巻(国枝清軒) - 国立国会図書館サーチ(書誌情報欄(請求記号211-434))事前共謀説の根拠とされた三成書状を収める『続武者物語』は、江戸時代前期の国枝清軒による雑史(逸話集)で、国立国会図書館に写本3冊が所蔵される。
「資料種別和古書・漢籍タイトル続武者物語 9巻タイトルよみゾク ムシャ モノガタリ著者・編者国枝清軒著者標目国枝, 清軒, 江戸時代前期」
- 阿部哲人「慶長五年の戦局における上杉景勝」『歴史』117号 - 国立国会図書館サーチ(書誌情報欄/東北大学機関リポジトリTOURへのリンクあり)上杉景勝と上方西軍の連携を検討した阿部哲人の論文(東北史学会『歴史』117号、2011年、30-56頁)は東北大学機関リポジトリで全文公開されている。
「資料種別記事著者阿部, 哲人出版者東北史学会出版年2011-10-25資料形態デジタル掲載誌名歴史 117掲載ページp.30-56」
- 宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」『大日光』78号 - 国立国会図書館サーチ(書誌情報欄(請求記号Z8-63))事前挟撃計画を否定する論拠を示した宮本義己の論文は『大日光』78号(日光東照宮、2008年3月)16〜31頁に掲載されている。
「資料種別記事著者宮本 義己出版者日光 : 日光東照宮出版年2008-03資料形態紙掲載誌名大日光 (通号 78) 2008.3掲載ページp.16~31」
- 石田三成書状(吉047) 収蔵品データベース - 真田宝物館(長野市)(資料番号 吉047/資料解説)三成は真田昌幸らに、自分の飛脚を沼田から会津の上杉景勝のもとへ通してほしいと依頼しており、上杉家への直通の連絡路を持っていなかったことがうかがえる。
「石田三成が真田昌幸・信之・信繁(幸村)に宛てた書状。この書状を携えた飛脚を、沼田から会津の景勝のもとに通してほしいこと、堀秀治は石田方に、前田利長は徳川方に加勢したことなどを伝えている。」
- 上杉景勝書状(吉048) 収蔵品データベース - 真田宝物館(長野市)(資料番号 吉048/資料解説)景勝は五大老・五奉行に対し家康が上洛するなら佐竹とともに関東へ侵攻すると伝えたが、その書状は上方に届かず真田家に残った。
「上杉景勝から大坂の豊臣家五奉行・五大老に宛てたもの。石田三成らが挙兵することについて同意することや、徳川家康が上洛するのであれば、景勝が佐竹とともに関東へ侵攻するつもりであるとしている。おそらく、会津から沼田を経由して上方に届けられるはずであったものが、届けられることなく真田家に残され伝来したものであろう。」
- 戦国史研究 (23) 目次(會田康範「石田・上杉共謀説について」) - 国立国会図書館サーチ(目次欄(1992年2月号))「石田・上杉共謀説」は學界の論題として扱われており、會田康範の同題の論考が『戦国史研究』23号(1992年2月)18〜19頁に載る。
「羅針盤 今川氏真の家督継承について長谷川弘道p16~18羅針盤 石田・上杉共謀説について會田康範p18~19」
- 直江状とは - コトバンク(デジタル大辞泉)(デジタル大辞泉「直江状」)直江状は原本が現存せず、後世の偽作ともいわれる。
「上杉家への上洛勧告に対する返書で、挑発的な内容であったことから家康の怒りを買い、上杉の領地である会津征伐につながったとされる。原本は現存せず、後世の偽作ともいわれる。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。