〈石田三成〉佐和山城は質素だった
壁は粗壁、床は板張り——出典は江戸後期の『甲子夜話』等で同時代史料ではない。「蓄財しない三成」像と結びついて広まった。
検証リサーチ
「〈石田三成〉佐和山城は質素だった」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
同時代史料になく、よく挙がる出典は落城の約220年後の随筆『甲子夜話』。一方で同時代の書状と発掘は大規模普請を示す。断定できず「諸説あり」が妥当。
くわしい根拠
結論
「佐和山城の中身は質素だった」という話は、三成が生きていたころの史料(同時代史料)では確かめられない。いま出典としてよく挙がるのは、江戸時代の後半に書かれた随筆『甲子夜話(かっしやわ)』である [1]。この本は1821年(文政4)11月に書き始められた [2]。佐和山城が落ちた慶長5年(1600年)から220年ほどあとの本だ
。いっぽうで、三成が城主だったころの書状や近年の発掘調査は、佐和山城が大がかりに造り直され、城下町ごと広げられた城だったことを示している [6]。つまり「質素だった」は、否定もできないが史実として断定もできない。図鑑の区分「諸説あり」は妥当だと考える。ただし本文は「初出=『甲子夜話』」と言い切らないほうがよい。
この話が最初に出てくる史料
流通している文面は、ほぼ一つの形にそろっている。「城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている(『甲子夜話』)」[1]。滋賀県の公式ページも、出典名を出さずに「内部は非常に質素なものであったという記録も残っています」と紹介している [4]。
ただし、注意すべき点が二つある。
一つめ。『甲子夜話』は肥前平戸藩主・松浦清(号は静山)の随筆で、中身は「名士の逸話、国内諸地域の奇談、異聞や民間の風俗」などを集めたものだ [2]。つまり役所の記録でも当事者の日記でもなく、200年以上あとの人がまとめた「聞き書きの逸話集」である。
二つめ。今回、『甲子夜話』の原文そのものはネット上で確認できなかった。日本語版ウィキペディアがこの記述に付けている注は今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館・人物叢書)213頁で、『甲子夜話』の何巻かは示されていない [1]。つまり「初出は『甲子夜話』」という説明自体が、いまのところ孫引きで広まっている状態だ。もっと古い江戸の軍記や逸話集にさかのぼる可能性も残る。
異説や否定説
正面から「質素ではなかった」と書いた史料は見つからなかった。ただし、事実の側から食い違う材料はいくつもある。
- 三成の家臣・須藤通光の書状(文禄5年=1596年、下郷共済会所蔵)に「佐和山惣構御普請」という文言がある [6]。惣構(そうがまえ)とは、城の一番外側を囲む堀や土塁のこと。三成の時代に大工事をしていたことを示す同時代の証拠である。
- 発掘調査でも、幅10メートル近い大規模な溝(外堀とみられる)が確認された [6]
。
- 彦根市も「石田三成のとき『佐和山惣構』の普請が行われた」と説明している [5]。
- 城そのものも、5層(3層とする説もある)の天守を持つ城に改められたと伝わる [3][4]。
- 出土品にも豪華なものがある。上級家臣の屋敷地を区画する堀から、五三桐をあしらった銅製の飾り金具が出た。桐紋は信長や秀吉ら権力者が好んだ紋で、「下賜された化粧箱に取り付けられていた」と推定されている [7]。
したがって「城全体が貧相だった」というイメージは、考古学の成果とかみ合わない。ただし、これらは城下町や家臣屋敷の資料であり、三成の居間の壁や床がどうだったかを直接示すものではない。山上の本丸は江戸のはじめに徹底的に壊され、石垣もほとんど残っていない [5]。内装については、肯定も否定もできないのが現状だ。
後世にどう語られたか
三成の逸話は、江戸時代に数多く作られた。有名な「三献の茶」も江戸時代の『武将感状記(砕玉話)』に載る話で、長浜市の公式サイトも「伝承の域を出ません」と断っている [8]。研究の側でも、中野等『石田三成伝』(吉川弘文館)の紹介文は「江戸時代、徳川家康に刃向かった逆賊として貶められた人物像が形成された過程にも触れつつ実像に迫る」とうたう [9]。
「質素な城」の話も、この長い物語づくりの流れの中に置いて読む必要がある。負けた側の三成には「私腹を肥やさない清廉な役人」という像と「逆賊」という像の両方が重ねられてきた。質素な佐和山城は、前者を支える小道具として使いやすかったのだろう。
読者が次に抱く疑問
Q1. 「落城のとき城に金銀がなかった」という話も本当か。 これは別系統の逸話で、今回の調査では同時代史料を確認できなかった。江戸時代の軍記・逸話集をたどる必要があり、現時点では史実とは言えない。
Q2. 発掘で内装はわからないのか。 平成30年度から令和4年度の調査は主に城下町が対象で、山上の御殿の内装まではわからない [6]。本丸の破却は徹底しており [5]、今後も直接の証拠が出る見込みは高くない。
Q3. 5層の天守は本当にあったのか。 「5層」「3層」と説が分かれており、どちらも伝承や絵図にもとづく [3][4]。断定はできない。
図鑑の記述への提案
区分「諸説あり」はそのままでよい。「伝説」に落とすほどの否定材料もないためだ。本文は次の3点を直すことを提案する。
- 「出典は江戸後期の『甲子夜話』等」→「現在よく引かれる出典は『甲子夜話』(1821年起稿)。ただし巻数が示されないまま孫引きで広まっており、原文は未確認」と書き換える。「等」の中身が確認できないため。
- 「同時代史料ではない」に加えて、落城から約220年後という年数を入れる。読者に距離感が伝わりやすい。
- 反証側を一行足す。「一方、文禄5年(1596年)の家臣の書状に『佐和山惣構御普請』とあり、発掘でも幅約10メートルの外堀が確認されるなど、城そのものは大規模だった」。
出典
- 佐和山城 - Wikipedia(羽柴・豊臣の時代/脚注6(今井, p. 213))「城内は板張り・あら壁で質素」という記述は『甲子夜話』に由来するとして紹介され、その注は今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館・人物叢書)213頁を挙げる。
「城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている(『甲子夜話』)」
- 甲子夜話(コトバンク/日本大百科全書)(日本大百科全書(ニッポニカ)「甲子夜話」)『甲子夜話』は平戸藩主松浦清(静山)の随筆集で、1821年(文政4)11月に起稿された逸話・奇談の聞き書き集であり、関ヶ原からは200年以上あとの編纂物である。
「隠居の年、1821年(文政4)11月甲子(17日)の夜に起稿、20年間書き続けたが未完成に終わった。」
- 佐和山城(コトバンク/講談社 日本の城がわかる事典)(講談社「日本の城がわかる事典」佐和山城)事典の記述では、三成は荒廃していた佐和山城を整備し、5層(3層説もある)の天守を持つ城に改めたとされ、質素さには触れていない。
「三成は荒廃が進行していた佐和山城の整備に着手し、5層(3層とする説もある)の天守を持った城に変えた。」
- 三成ゆかりの地めぐり|滋賀県ホームページ(三成も眺めた琵琶湖の景色・佐和山城趾)滋賀県公式サイトも、佐和山城は5層天守を構えた名城とされる一方「内部は非常に質素」という記録が残ると、出典名を示さずに紹介している。
「彦根市の北部佐和山にあったこの城は5層の天守を構えていたとされていますが、内部は非常に質素なものであったという記録も残っています。」
- 佐和山城 - 彦根市(佐和山城跡の調査)彦根市は、三成の時代に「佐和山惣構」の普請が行われたとし、また天守・櫓は現存せず石垣もほとんど残らないため城郭としての評価が長く低かったと説明する。
「佐和山城跡は、天守や櫓などの建物がまったく現存せず、石垣などもほとんど残っていないため、これまで城郭としてあまり評価はされませんでした。」
- 調査員のおすすめの逸品№383 発掘調査の思い出-石田三成による大工事「佐和山惣構御普請」の発見-(滋賀県文化財保護協会)(オススメの逸品 第383回(2025年10月23日、企画整理課 山口誠司))文禄5年(1596)の三成家臣・須藤通光書状に「佐和山惣構御普請」の文言があり、発掘でも幅10m近い外堀が確認された。三成の時代に大規模普請が行われた同時代の裏づけである。
「さらに重要なのが、文禄5年(1596)のものとされる三成の家臣・須藤通光の書状(下郷共済会所蔵)です。この書状には「佐和山惣構御普請」という文言がみられます。」
- 調査員のオススメの逸品 第236回 戦国の権力の象徴:桐紋の金具―彦根市佐和山城跡出土―(滋賀県文化財保護協会)(オススメの逸品 第236回(2018年6月27日))佐和山城跡の上級家臣屋敷地の堀から五三桐の銅製飾り金具が出土し、信長や秀吉から下賜された化粧箱の金具と推定されている。
「信長や秀吉から下賜された化粧箱に取り付けられていたと推定されるのです。そのうえ、出土した場所が上級家臣達の屋敷地と考えら」
- STORY〜運命を攻略せよ 石田三成(長浜市)(石田三成と秀吉の出会い(三献の茶))三成の代表的な逸話「三献の茶」は江戸時代の『武将感状記(砕玉話)』に載るもので、長浜市の公式サイトも伝承の域を出ないと断っている。
「この出来事は秀吉の長浜城主時代に遡り、江戸時代に書かれた「武将感状記(砕玉話)」では次のように伝わります。」
- 中野等『石田三成伝』(吉川弘文館)書誌ページ(内容説明(四六・578ページ、中野等 著))一次史料に基づく評伝『石田三成伝』は、三成像が江戸時代に「逆賊」として形成された過程を扱うとし、三成の人物像の多くが後世の挿話に由来することを示す。
「「三献茶」や嶋左近の召し抱えなど多くの挿話によって語られてきた「実務に優れた青白きインテリ」像を超えて、三成関係の一次史料を丹念に読み解きながらその生涯を明らかにする。江戸時代、徳川家康に刃向かった逆賊として貶められた人物像が形成された過程にも触れつつ実像に迫る、三成伝の決定版。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。