〈石田三成〉島左近を高禄で招聘

「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」の狂歌は宝暦年間(1751〜64)の『古今武家盛衰記』が出典。「知行の半分を与えた」も後世の逸話集。左近が重臣として関ヶ原で奮戦したこと自体は史実。

検証リサーチ

「〈石田三成〉島左近を高禄で招聘」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

狂歌も「知行の半分」も同時代史料になく、18世紀の『古今武家盛衰記』『常山紀談』が初出。区分は諸説あり。左近が三成の重臣だった事実は灯籠銘と自筆書状で確認できる。

くわしい根拠

結論

「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という狂歌(きょうか=風刺の歌)も、「知行(ちぎょう=領地からの取り分)の半分を与えて島左近を招いた」という話も、関ヶ原と同じ時代の記録には出てこない。どちらも江戸時代なかば、18世紀の読み物に初めて現れる。一方で、島左近(本名は島清興〈しま きよおき〉)が三成の重臣だったこと自体は、同時代のモノと文書で確かめられる。区分は「諸説あり」でよいが、狂歌と「半分」の話は後世の脚色の可能性が高い、と踏み込んでよい。[4][5][6]

この話が最初に出てくる史料

二つの話は、じつは別々の本から来ている。

狂歌のほうは『古今武家盛衰記(こきんぶけせいすいき)』という江戸時代の軍記(いくさの読み物)にある。大正3年(1914)に黒川真道が活字にした『国史叢書』本があり、国立国会図書館のデジタル資料として全文テキストが公開されている。[1] 石田三成をめぐる記述の中で、三成は左近が兵法にくわしいのを喜んで「萬石(まんごく)を與へ」たとあり、続けて「之に依つて時の人、狂歌に、治部少に過ぎたるものが二つあり島左近に佐和山の城」と書かれている。つまり**この本では「半分」ではなく「一万石」**であり、左近は「對馬(つしま)の人」とされている。図鑑がいう「島の左近と」も、この本では「島左近に」である。

「知行の半分」のほうは『常山紀談(じょうざんきだん)』。元文4年(1739)ごろ成立した江戸中期の史談集(武士の逸話集)だ。[2] その「石田三成が事」に、水口(みなくち)四万石をもらっていた三成が、家臣は左近ひとりだと答え、「祿の平分を分ち二萬石與へ候」と言い、秀吉が「君臣の祿相同じといふ事昔より聞きも傳へず」と感心した、とある。

どちらも関ヶ原(1600年)から130年以上あとの本である。

異説や否定説

歴史学者の渡邊大門氏は、そもそも三成が水口を領していたという前提が誤りだとし、「『常山紀談』の記述は誤りであり…後世に創作されたものと考えられる」と述べる。[4] 三成がいつ佐和山城主になったかは研究上の論点でもあり、伊藤真昭「石田三成佐和山入城の時期について」(『洛北史学』4号、2002年、67〜89頁)などの検討がある。[8]

召し抱えの逸話そのものが、三成が小姓のころ渡辺勘兵衛を破格の待遇で召し抱えたという別の話の焼き直しだ、という説もある。[7]

名前も本ごとに違う。一次史料では「清興」。『古今武家盛衰記』は「勝猛(かつたけ)」、『常山紀談』は「昌仲(まさなか)」と書く。呼び名が定まらないこと自体、後世の本が伝聞で書いている証拠といえる。[4]

後世にどう語られたか

狂歌は近代の歌集『狂歌大観 2 参考篇』の「寛永以前落首」の節に「治部少に過たる物か二つあり 島の左近に佐和山の城」として収められた。[3] ただし「〜に過ぎたるものが二つあり」は定型の言い回しで、「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」など、同じ型の歌がいくつもある。[3] 型にはめれば誰にでも作れる歌なので、関ヶ原のころ実際に歌われた証拠にはならない。

いっぽう、左近が実在の重臣だったことは動かない。天正5年(1577)に春日大社へ寄進した石灯籠に「春日社奉寄進嶋左近丞清興」と刻まれ、これが確実な初見とされる。[6] さらに2016年、東京大学史料編纂所と長浜城歴史博物館が、左近自筆の書状2通を発表した。[5] 天正18年(1590)7月のもので、佐竹氏との交渉を任されており、小田原攻めのころには三成のもとで重要な役を担っていたとわかる。佐和山城は三成の居城で、三成のときに「佐和山惣構」の普請が行われた。[9]

読者が次に抱く疑問

Q. 結局、左近の知行はいくらだったの? 一次史料に知行高を示すものはない。「二万石」も「一万石」も江戸中期の本の数字で、裏づけがない。高禄だったという印象だけが残ったと考えるのが安全だ。[1][4]

Q. 左近は本当に関ヶ原で死んだの? 事典類は慶長5年(1600)9月15日戦死とするが、その細部の根拠は『常山紀談』などの後世の編纂物である。[2] 京都・立本寺教法院には寛永9年(1632)まで生きたという伝えもあり、断定はできない。

図鑑の記述への提案

  1. 「宝暦年間(1751〜64)の『古今武家盛衰記』が出典」の年代は裏づけが取れなかった。国立国会図書館の書誌でも成立年は不明とされる。「江戸中期の軍記『古今武家盛衰記』」とし、年号は断定しない書き方を勧める。[1]
  2. 二つの話の出典を分けて書くとよい。狂歌は『古今武家盛衰記』、「知行の半分」は『常山紀談』(元文4年=1739年ごろ)。しかも『古今武家盛衰記』の側では知行は「萬石」で、半分ではない。数字が史料ごとに食い違う点は明記したい。[1][2]
  3. 狂歌の文言も一定しない。「島の左近と」(事典)、「島の左近に」(狂歌大観)、「島左近に」(古今武家盛衰記)と揺れている。[1][3]
  4. 「左近が重臣として関ヶ原で奮戦したこと自体は史実」は、「三成の重臣だったことは石灯籠の銘や自筆書状で確認できる。関ヶ原での戦いぶりの細部は後世の編纂物による」と直すのがより正確。[5][6]
  5. 実名は「清興」で、「勝猛」は一次史料で確認できない、と一言添えたい。[4]

出典

  1. 国立国会図書館 次世代デジタルライブラリー 書誌データ『古今武家盛衰記』1(黒川真道編、国史研究会、1914年)(書誌JSON(id=985956))
    狂歌の出典とされる『古今武家盛衰記』は、大正3年(1914)に黒川真道の編で活字化され、国立国会図書館のデジタル資料として全文テキストが公開されている。
    「"title":"古今武家盛衰記","volume":"1","responsibility":"黒川真道 編","publisher":"国史研究会","published":"1914"」
  2. コトバンク「常山紀談」(デジタル大辞泉・日本大百科全書ほか)(デジタル大辞泉「じょうざんきだん」)
    「知行の半分を与えた」話を載せる『常山紀談』は元文4年(1739)ごろ成立の江戸中期の史談集で、関ヶ原から130年以上あとの編纂物である。
    「江戸中期の随筆。正編25巻。湯浅常山著。原形は元文4年(1739)成立。完成は明和7年(1770)とされ、その後拾遺4巻と付録1巻が加えられる。戦国時代から江戸初期までの名将・傑物の言行を伝えた史談集。」
  3. レファレンス協同データベース(国立国会図書館/埼玉県立久喜図書館)「〇〇に過ぎたるものが二つあり…という狂歌を知りたい」(回答欄 1 図書)
    この狂歌は『狂歌大観 2 参考篇』の「寛永以前落首」に「治部少に過たる物か二つあり 島の左近に佐和山の城」として収められ、同じ型の歌が他にも多数ある。
    「『狂歌大観 2 参考篇』(狂歌大観刊行会編 明治書院 1984) p103「寛永以前落首」の節に、「治部少に過たる物か二つあり 島の左近に佐和山の城」とあり。」
  4. 渡邊大門「石田三成が島清興(左近)を三顧の礼で家臣に迎え、過分な知行を与えたのは事実か?」Yahoo!ニュース エキスパート(本文末尾)
    歴史学者の渡邊大門氏は、三成が水口を領していたという前提が誤りであることから『常山紀談』の記述を誤りとし、狂歌も後世の創作と考える。
    「『常山紀談』の記述は誤りであり、「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」と詠まれたのも、後世に創作されたものと考えられる。」
  5. 四国新聞(共同通信配信)「石田三成腹心の書状2通発見/島左近、他武将との交渉役」2016年7月1日(記事本文冒頭)
    2016年に島左近自筆の書状2通(天正18年=1590年7月)が初めて確認され、東京大学史料編纂所と長浜城歴史博物館が発表した。
    「戦国武将、石田三成の腹心だった島左近が記した書状2通が初めて見つかり、東京大史料編纂所と長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が1日までに発表した。」
  6. ウィキペディア日本語版「島清興」出自の節(生涯>出自)
    左近(島清興)の確実な初見は、天正5年(1577)に春日大社へ寄進した石灯籠の「春日社奉寄進嶋左近丞清興」の銘である。
    「天正5年(1577年)4月22日、左近は春日大社に灯籠一基を寄進している。そこには「春日社奉寄進嶋左近丞清興」と刻まれており、これが左近の確実な初見となる。」
  7. ウィキペディア日本語版「島清興」石田三成の時代の節(生涯>石田三成の時代)
    左近召し抱えの逸話は、三成が小姓時代に渡辺勘兵衛を破格の待遇で召し抱えた話を元に作られたとの説がある。
    「石田三成は小姓の頃に知行500石全てを投げうって、柴田勝家や主君・豊臣秀吉が1万2,000石で召し抱えようとした豪傑・渡辺勘兵衛(渡辺了とは別人)を召し抱えており、その話を元にして左近召し抱えの逸話が作られたとの説もある。」
  8. 国立国会図書館サーチ 書誌:伊藤真昭「石田三成佐和山入城の時期について」『洛北史学』4号(2002年)(書誌情報(掲載ページ p.67〜89))
    三成が佐和山城主になった時期は研究上の論点であり、専門誌に検討論文が発表されている。
    「石田三成佐和山入城の時期について記事を表すアイコン石田三成佐和山入城の時期について国立国会図書館請求記号Z71-D450」
  9. 彦根市 文化財課「佐和山城」(本文)
    佐和山城は石田三成の居城で、三成のときに「佐和山惣構」の普請が行われた。
    「その後、丹羽 長秀・堀 秀政・堀尾 吉晴と引き継がれ、石田 三成のとき「佐和山惣構」の普請が行われた。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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