〈丹羽長秀〉「鬼五郎左」の武勇
箕作城攻め(1568)、佐和山城の8か月攻囲と城主就任(1571)は『信長公記』『新修彦根市史』で確認できる史実。だが「鬼五郎左」の異名は同時代史料に初出を確認できず、後世に「米五郎左」と対で語られるようになったもの。朝倉義景の母・遺児の処刑(『越州軍記』)など、冷徹な実行者の顔も記録に残る。
検証リサーチ
「〈丹羽長秀〉「鬼五郎左」の武勇」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
戦功(箕作城1568・佐和山1571)は『信長公記』で確認できる史実。だが「鬼五郎左」は同時代史料にも事典にも出ず初出不明で、「米五郎左」も江戸中期『翁草』止まり。
くわしい根拠
結論
この逸話は「史実の部分」と「出典が確かめられない部分」がはっきり分かれます。箕作(みつくり)城攻め(1568年)と佐和山城の長期攻囲・接収(1571年)は、同時代に近い一次史料『信長公記(しんちょうこうき)』で確認できる史実です [1][2][4]。しかし「鬼五郎左」という異名は、『信長公記』にも主要な事典にも出てきません [7]。対になるとされる「米五郎左」も、確認できるのは江戸中期の随筆『翁草(おきなぐさ)』に載る評言で、長秀の死から約200年後のものです [6][8]。よって区分は「諸説あり」でよいものの、異名の部分だけを取り出せば「初出不明の後世の言い伝え」に近いと考えます。
この話が最初に出てくる史料
戦功の記録は『信長公記』が最古の層です。永禄11年(1568)の箕作山城攻めについて、同書は「同十二日に かけ上させられ 佐久間右衛門 木下藤吉郎 丹羽五郎左衛門 浅井新八 被仰付箕作山之城攻させられ申剋ヨリ夜に入攻落乾」と記します [1]。丹羽長秀(五郎左衛門)が攻め手の一人だったことは動きません。ただし本文に「鬼のような働き」といった描写はありません。
佐和山城は、彦根市の解説が「8か月にわたる攻防がくりひろげられた」と書き [4]、『信長公記』は決着を「二月廿四日 磯野丹波降参申佐和山之城渡し進上して高島へ罷退則 丹羽五郎左衛門為城代被入置候キ」と記します [2]。ここで大事なのは、原文が「城代(城をあずかる代官)」と書いていることです。事典類が使う「佐和山城主」という言い方は、後の時代にならされた表現です [7]。
一方、異名「鬼五郎左」は、『信長公記』首巻〜巻十五の全文を通して1か所も出てきません(「米五郎左」も0件)。同時代史料にさかのぼれる語ではない、というのが今回の確認結果です。
異説や否定説
「鬼五郎左」を正面から否定した論文は見つけられませんでした。異名そのものが研究の対象になっていない、というのが実情です。ただし否定に近い状況証拠は複数あります。コトバンクに載る『日本大百科全書』の丹羽長秀項は「幼名万千代、通称五郎左衛門」まで書きながら、異名にはひと言も触れません [7]。『世界大百科事典』『ブリタニカ』『日本人名大辞典』の各項も同様です。事典が採らないということは、典拠が示せないということです。
また、ネット上の通俗記事には「1565年の上洛のとき六角家の城を1日で落としたので鬼五郎左と呼ばれた」という説明が広まっています。しかし信長が足利義昭を奉じて上洛したのは1568年で、六角方の箕作山城を落としたのも同年9月12日です [1]。年が3年ずれており、しかも典拠となる史料名が示されていません。この由来話は後から作られた説明とみるのが自然です。
さらに、『信長公記』の箕作山城の記事は「申剋(さるのこく、午後4時ごろ)から夜に入って攻め落とした」と書くだけで、長秀ひとりの働きを特筆してはいません [1]。攻め手は佐久間右衛門(信盛)・木下藤吉郎(秀吉)・浅井新八を含む4人で、長秀を「鬼」と呼ぶ根拠になる描写は原文にありません。
後世にどう語られたか
「米五郎左」の側はたどれます。『翁草』は「江戸後期の随筆。神沢杜口(かんざわとこう)著。1791年(寛政3)成立。200巻」の書物で [6]、そこに「織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があった」と伝わります [8]。米のように毎日欠かせない、という褒め言葉です。ただしこの評言も、長秀が亡くなった1585年から206年後に書き留められたものです。『翁草』は「諸書,諸記録を抄録し」た本なので [6]、さらに古い出典があった可能性は残りますが、現時点でそれを特定はできませんでした。「鬼五郎左」は、この語呂のよい「米五郎左」に対して、武辺(ぶへん、武勇)の面を補うかたちで後から添えられた可能性が高いと考えます。
冷徹な実行者という面は、伝聞ではなく記録に残ります。『信長公記』巻六は「義景之母儀並嫡男阿君丸尋出シ 丹羽五郎左衛門に被仰付生害候也」と記し [3]、『福井県史』通史編2も「そののち光徳院と愛王は丹羽長秀により南条郡の帰の里で殺され(「越州軍記」)」とします [5]。名の表記は「阿君丸」と「愛王」で揺れています。
なお近年の研究も、長秀の動きを「史料にもとづき確定し」、後世の歴史叙述を相対化する方向に進んでいます [9]。
読者が次に抱く疑問
Q1. 「城代」と「城主」はどう違うの? 城代は主君から城をあずかる立場、城主は自分の領地として城を持つ立場です。『信長公記』は1571年時点を「城代」と書きます [2]。事典が「佐和山城主」と書くのは後年を含めた要約です [7]。
Q2. 「8か月」は誰が数えた数字? 彦根市の文化財解説が使う表現です [4]。『信長公記』は決着の日付(元亀2年2月24日)を明記しますが [2]、「8か月」という言い方自体は原文にはありません。
Q3. 朝倉義景の母と子を殺したのは長秀で確定? 『信長公記』と『越州軍記』の両方が長秀の名を出しており [3][5]、この点は伝承ではなく記録です。ただし『信長公記』は場所を書かず、殺害地を「南条郡の帰の里」とするのは『越州軍記』に拠る『福井県史』の記述です [5]。
Q4. なぜ異名だけ史料が残らないの? あだ名は日常の言葉で、公式の記録や書状には書かれにくいためです。だから「同時代史料にない=当時呼ばれていなかった」とまでは言い切れません。言えるのは「確かめられない」までです。
図鑑の記述への提案
- 「佐和山城の…城主就任(1571)」→「城代として入れ置かれた(『信長公記』巻四)」に改めるか、「のちに城主とされる」と補うのが正確です [2]。
- 「後世に『米五郎左』と対で語られるようになった」は、二つを分けて書くと親切です。「米五郎左」は江戸中期『翁草』に載る評言 [6][8]、「鬼五郎左」は初出史料を確認できない、という差があります。
- 「朝倉義景の母・遺児の処刑(『越州軍記』)」→ 『信長公記』巻六にも記載があります [3]。史料の格が上がるので併記を勧めます。名は「阿君丸」(信長公記)/「愛王」(福井県史)と表記が揺れる点も一言添えると誠実です [3][5]。
- 区分は「諸説あり」のままでよいですが、「戦功は史実、異名は初出不明」と一行で書き分けると、読者が誤解しません。
出典
- 信長公記 巻一(四)信長御入洛十余日之内に五畿内隣国被仰付被備征夷将軍之事(Wikisource 翻刻)(巻一(四)信長御入洛十余日之内に五畿内隣国被仰付被備征夷将軍之事)永禄11年9月12日の箕作山城攻めに丹羽五郎左衛門(長秀)が攻め手の一人として加わったことは『信長公記』に記されている。
「同十二日に かけ上させられ 佐久間右衛門 木下藤吉郎 丹羽五郎左衛門 浅井新八 被仰付箕作山之城攻させられ申剋ヨリ夜に入攻落乾」
- 信長公記 巻四(一)佐和山城渡し進上之事(Wikisource 翻刻)(巻四(一)佐和山城渡し進上之事(元亀二辛未))元亀2年2月24日に磯野丹波守が佐和山城を明け渡し、丹羽五郎左衛門が「城代」として入れ置かれたと『信長公記』は記す(「城主」ではない)。
「二月廿四日 磯野丹波降参申佐和山之城渡し進上して高島へ罷退則 丹羽五郎左衛門為城代被入置候キ」
- 信長公記 巻六(天正元年 越前御進攻の条)(Wikisource 翻刻)(巻六(天正元年癸酉・越前一乗谷攻略の記事))朝倉義景の母と嫡男の処刑を丹羽五郎左衛門が命じられて実行したことは、『越州軍記』だけでなく『信長公記』巻六にも記されている。
「義景之母儀並嫡男阿君丸尋出シ 丹羽五郎左衛門に被仰付生害候也」
- 佐和山城/彦根市 文化財課(文化財一覧>佐和山城(更新日:2024年09月02日、HP番号4587))元亀元年の姉川合戦後、佐和山城に籠った磯野員昌をめぐって8か月にわたる攻防が行われたと彦根市は解説している。
「戦国時代、佐和山城は度々戦乱の舞台となり、多くの武将の居城となった。なかでも、元亀元年(1570)の姉川合戦では、敗走した浅井勢の磯野 員昌が籠城し、8か月にわたる攻防がくりひろげられた。」
- 『福井県史』通史編2 中世「再三の近江出兵と滅亡」(福井県文書館)(第四章第四節五「再三の近江出兵と滅亡」)朝倉義景の母・光徳院と子の愛王が丹羽長秀により南条郡帰の里で殺されたことを、『福井県史』は「越州軍記」に拠って記す。
「そののち光徳院と愛王は丹羽長秀により南条郡の帰の里で殺され(「越州軍記」)、五代一〇〇年にわたり越前に栄華を誇った朝倉氏の直系は完全に絶えた。」
- 翁草(おきなぐさ)|改訂新版 世界大百科事典(コトバンク)(改訂新版 世界大百科事典「翁草(おきなぐさ)」の項)「米五郎左」の評言を載せる『翁草』は神沢杜口による1791年(寛政3)成立の随筆で、長秀の死から約200年後の書物である。
「江戸後期の随筆。神沢杜口(かんざわとこう)著。1791年(寛政3)成立。200巻。別に抄出刊本5巻,異本200巻がある。諸書,諸記録を抄録し,また,自己の見聞を記して一書としたもの。」
- 丹羽長秀|日本大百科全書ほか(コトバンク)(日本大百科全書(ニッポニカ)「丹羽長秀」の項(執筆:奥野高広))事典の丹羽長秀の項は幼名・通称まで記すが、「鬼五郎左」「米五郎左」という異名は挙げていない。
「安土(あづち)桃山時代の武将。織田氏の老臣。尾張(おわり)国児玉(こだま)(名古屋市西区)に生まれる。幼名万千代、通称五郎左衛門(ごろざえもん)。奉行人(ぶぎょうにん)。」
- 丹羽長秀 - Wikipedia(「人物・逸話」節)「米五郎左」を含む織田家中の評言の典拠として挙げられているのは江戸中期の随筆『翁草』である。
「織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があった(『翁草』)。」
- 大河内勇介「本能寺の変直後の柴田勝家と丹羽長秀」『福井県立歴史博物館紀要』14、2021年、41-65頁(国立国会図書館サーチ)(資料詳細・要約等)近年の丹羽長秀研究は、その動向を史料にもとづいて確定し、後世に作られた歴史叙述を相対化することを課題としている。
「本能寺の変から清州会議までの柴田勝家と丹羽長秀の動向史料にもとづき確定し,羽柴秀吉により「中国大返し」や明智光秀打倒を主軸とする歴史叙述の相対化を図る.」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。