〈教如〉講和後も大坂に残った「大坂拘様」

一旦提出した講和受諾の請文を撤回し、天正8年(1580)閏3月13日付の雑賀衆宛書状で信長への不信と仏法存続を掲げて抗戦継続を宣言、講和不満派の門徒と籠城したことは一次史料で確実。ただし動機は、父子密計説(辻善之助。現在は否定的)、信長・朝廷に存続保証を迫る「訴訟」だったとする神田千里説、坊官謀略説、雑賀衆働きかけ説と分かれる。父・顕如のページの検証と同じく、講和派と抗戦派に割れた教団内部の路線対立の反映とみるのが近年の主流である。

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