〈大谷吉継〉関ヶ原を前に「吉隆」と改名した
現存する発給文書はすべて「吉継」で、「吉隆」は古文書上確認できない(平野明夫氏)。「(三好)義継に音が通じて不吉だから改名した」という話は『烈祖成績』による後世の伝。ただし関ケ原町の墓塔は「大谷吉隆墓」の銘で国史跡に指定されている。
検証リサーチ
「〈大谷吉継〉関ヶ原を前に「吉隆」と改名した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「諸説あり」だが実質は後世の伝。発給文書はすべて「吉継」で、改名を語るのは江戸期の『烈祖成績』。江戸の本は関ヶ原以前の場面でも「吉隆」と書く。
くわしい根拠
結論
「関ヶ原を前に、大谷吉継が『吉隆』へ改名した」という話は、「同時代の史料では裏づけがとれません」。本人が出した文書(発給文書=本人の名で出した書状や命令書)は、いま確認できるものがすべて「吉継」で、「吉隆」と署名した古文書は見つかっていません[1]。改名の理由まで語るのは江戸時代の編纂物『烈祖成績(れっそせいせき)』で、同時代の記録ではありません[2][6]。しかも江戸時代の本は、関ヶ原よりずっと前の場面でも彼を「吉隆」と書いています[4]。つまり「関ヶ原の直前に改名した」という時点の設定そのものが、後からの説明である可能性が高いといえます。図鑑の区分「諸説あり」は妥当ですが、中身はかなり「後世の伝」寄りです。
この話が最初に出てくる史料
図鑑が挙げるとおり、改名の理由を語る典拠は『烈祖成績』です[2]。これは水戸藩の学者・安積澹泊(あさか たんぱく、1656〜1737)が徳川家康の事績をまとめた本で、国立国会図書館の書誌でも著者と件名(徳川家康)がそのように記録されています[6]。吉継が死んだ1600年より百年ほどあとの人の編纂物で、「一次史料(その出来事の時代に書かれた記録)ではない」点をまず押さえる必要があります。なお今回、『烈祖成績』の当該箇所の原文そのものは公開テキストで確認できませんでした。原文にあたるには翻刻や原本の閲覧が要ります。
一方、江戸時代のはじめに小瀬甫庵(おぜ ほあん)が書いた『太閤記』は、文禄3年5月28日付の連署(れんしょ=複数人が並んで署名した文書)を「増田右衛門尉長盛 石田治部少輔三成 大谷刑部少輔吉継 小西摂津守行長」と写しています[3]。古い編纂物のほうが「吉継」なのです。
異説や否定説
否定の根拠として最も重いのは、発給文書の調査です。図鑑が引く平野明夫氏の論考は、花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』(新人物往来社、2000年5月刊)に収められています[7]。書名は「大谷吉継のすべて」ではなく「大谷刑部のすべて」なので、引用のときは注意が必要です。
もう一つ、改名説と正面からぶつかる事実があります。『立花朝鮮記』は朝鮮出兵(1590年代)の場面で「黒田甲斐守長政 大谷刑部少輔吉隆両人来られ」と書いています[4]。関ヶ原の何年も前の話なのに「吉隆」です。江戸時代の書き手にとって「吉隆」は、ある時点で変えた新しい名ではなく、その人の名そのものでした。だとすると「関ヶ原を前に改名した」という説明は、あとから付け足された理屈と考えるほうが自然です。
事典類も「改名」とは書きません。講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は「通称は刑部(ぎょうぶ)、紀之介。名は別に吉隆。」と、別名として並べるだけです[9]。同じコトバンクに載る『世界大百科事典』や『山川 日本史小辞典』の項目は、そもそも「吉隆」に触れません[9]。
後世にどう語られたか
広まった大きな理由は、幕府がつくった歴史書に採られたことです。『東照宮御実紀附録』(『徳川実紀』の一部)は「石田治部少輔三成・大谷刑部少輔吉隆二人が行衛知れざれば」と、当たり前のように「吉隆」を使っています[5]。幕府の公式の編纂物がこの表記を採れば、以後の読み物もそれにならいます。
研究者の説明も同じ方向です。敦賀市立博物館の外岡慎一郎氏は、福井県文書館の紀要に「乱世に義を貫く—名将大谷吉継の実像—」を発表し(2017年、本文は無料公開)[8]、そのなかで、江戸時代の中期以降に「理想的な武将 大谷吉隆」という名前で再登場する、と説明しています。死後に「幸村」の名で有名になった真田信繁と同じ構図です。
なお、現地の岐阜関ケ原古戦場記念館は、関ケ原町藤下(とうげ)にある墓を「大谷吉継墓」と紹介しています[10]。図鑑がいう国史跡の指定名称「大谷吉隆墓」[2]とは呼び方が違うので、書くときは区別が要ります。
読者が次に抱く疑問
Q. なぜ「吉隆」なら縁起がよいとされたの? 『烈祖成績』による説明では、「吉継」が同じ読みの三好義継に音が通じて不吉だから、とされます[2]。ただしこれは編纂した側の理屈で、当時の本人がそう考えた証拠はありません。
Q. 墓石に「吉隆」と彫ってあるなら本人の名では? 墓は本人が建てたものではありません。記念館の解説でも、吉継の墓は藤堂家によって建てられたと伝えられます[10]。建てた側や後世の呼び方が刻まれた可能性が高く、本人の署名とは分けて考える必要があります。
Q. では、なぜ関ヶ原の史跡だけ「吉隆」なの? 幕府編纂の『東照宮御実紀附録』が「吉隆」を使い[5]、江戸中期以降の読み物でもこの名が定着したためと考えられます[8]。史跡の名は、その時代の呼び方をそのまま受け継いだものです。
図鑑の記述への提案
- 区分は「諸説あり」のままでよいですが、本文の先頭で「改名があった事実そのものが確認できない」と言い切るほうが正確です。
- 「関ヶ原を前に改名」という前提に注記を足してください。江戸時代の編纂物は朝鮮出兵の場面でも「吉隆」と書いており[4]、改名の時期という設定自体が後世の説明です。
- 平野明夫氏の論考の収録書名を「花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』(新人物往来社、2000年)」と正しく示すこと[7]。
- 「吉隆」が広まった道筋として、幕府編纂の『東照宮御実紀附録』が採用したこと[5]、江戸中期以降に理想の武将像として再登場したこと[8]を一行足すと、読者が納得しやすくなります。
- 墓の呼称は、国史跡の指定名称と現地施設の表記(「大谷吉継墓」[10])が違うことを添えると、現地で混乱しません。
出典
- 大谷吉継 - Wikipedia(冒頭の概要)「吉隆」は現存する古文書では確認できず、発給文書はいずれも「吉継」であるとされる(平野明夫氏の論考にもとづく記述)。
「名前については、「吉隆」ともされるが、現存する古文書では確認できず、いずれも「吉継」である」
- 大谷吉継 - Wikipedia(注釈2・注釈3)(注釈2(および注釈3の国史跡「大谷吉隆墓」))改名の理由を「(三好)義継に音が通じて不吉だから」と説明するのは安積澹泊『烈祖成績』であり、関ケ原町の墓塔は「大谷吉隆墓」として国史跡に指定されている。
「関ヶ原の戦いで西軍へ加担することを決めた際に、吉継では「(三好)義継」に音が通じて不吉であるという理由で吉隆に改名したという(安積澹泊『烈祖成績』)」
- 太閤記/巻十五 - Wikisource(小瀬甫庵著、史籍集覧本)(巻十五「大明より使者之事」末尾の連署)江戸時代初期の『太閤記』は、文禄3年5月28日付の連署を「大谷刑部少輔吉継」と記す。
「五月廿八日 増田右衛門尉長盛 石田治部少輔三成 大谷刑部少輔吉継 小西摂津守行長」
- 立花朝鮮記 - Wikisource(立花宗茂の戦功を記す条(朝鮮の陣))江戸時代の編纂物は、関ヶ原よりも前の朝鮮出兵の場面でも彼を「大谷刑部少輔吉隆」と表記している。
「かゝる処に黒田甲斐守長政大谷刑部少輔吉隆両人来られ貴辺は少人数を以て以前も申せしことく数万の敵に向て合戦を決せらるゝ事不覚に候」
- 東照宮御実紀附録/巻十一 - Wikisource(『徳川実紀』)(巻十一「三成の捕縛」の条)幕府が編纂した『東照宮御実紀附録』は関ヶ原後の記事で「大谷刑部少輔吉隆」と表記する。
「【三成の捕縛】石田治部少輔三成・大谷刑部少輔吉隆二人が行衛知れざれば、田中兵部大輔吉政に命じ追捕せしめらる」
- 烈祖成績 | NDLサーチ | 国立国会図書館(書誌情報)『烈祖成績』は安積澹泊(1656-1737)が著した徳川家康に関する編纂物で、明治11年に徳川昭武により刊行された。
「タイトル 烈祖成績 タイトルよみ レッソ セイセキ 著者・編者 安積澹泊 (覚) 著 著者標目 安積, 澹泊, 1656-1737」
- 大谷刑部のすべて | NDLサーチ | 国立国会図書館(書誌情報(著者・編者:花ヶ前盛明 編/出版者:新人物往来社/出版年:2000.5))図鑑が引く平野明夫氏の論考を収める書物の正しい書名は花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』(新人物往来社、2000年5月)である。
「タイトル 大谷刑部のすべて」
- 乱世に義を貫く 名将大谷吉継の実像(外岡慎一郎、『福井県文書館研究紀要』14、2017年)(書誌ページ(2017年14巻 p.1-17、PDF本文7頁「4.秀吉政権のなかの大谷吉継」))敦賀市立博物館の外岡慎一郎氏による大谷吉継の実像を扱う論考が福井県文書館の紀要に無料公開されており、同論考は「吉隆」の名が江戸時代中期以降に理想的な武将像として再登場したものだと説明する。
「乱世に義を貫く 名将大谷吉継の実像 外岡 慎一郎 著者情報 外岡 慎一郎 [日本] 敦賀市立博物館」
- 大谷吉継とは? 意味や使い方 - コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)の項)事典類は見出しを「大谷吉継」とし、「吉隆」は改名ではなく別名として記す。
「関ケ原の戦いでは西軍に属し,慶長5年9月15日敗れて自刃(じじん)。42歳。通称は刑部(ぎょうぶ),紀之介。名は別に吉隆。」
- 大谷吉継コース|古戦場・史跡巡り|岐阜関ケ原古戦場記念館(関連史跡「大谷吉継墓」)現地の岐阜関ケ原古戦場記念館は関ケ原町藤下の墓を「大谷吉継墓」と表記し、墓は藤堂家により建立されたと伝えると説明する。
「大谷吉継墓 所在地:関ケ原町大字藤下678-2 最期を悟った大谷吉継は自身の首を隠すように家臣・湯浅五助に命じ、自刃。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。