〈大谷吉継〉平塚為広と辞世を交換した
為広「名のために棄つる命は惜しからじ…」への返歌「契りあれば六の巷にまてしばし…」。初出は『関原軍記大成』(1713)等の江戸期編纂物で、戦場の混乱下の和歌の応酬をそのまま史実とは断じられない。「六の巷」(六道の辻)が後世「六文銭を共に」の友情イメージへ転化し、三成との友情譚と一体化した。
検証リサーチ
「〈大谷吉継〉平塚為広と辞世を交換した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
同時代史料になく、確認できる初出は江戸中期の逸話集『常山紀談』(1739)。図鑑がいう『関原軍記大成』には和歌が見あたらず、歌の文句も本ごとに揺れる。
くわしい根拠
結論
「関ヶ原の戦場で辞世(じせい=死ぬ前に詠む歌)を交換した」という話は、「同時代の記録には見あたりません」。今のところ確認できる最も古い出どころは、江戸中期の逸話集『常山紀談(じょうざんきだん)』(元文4年=1739年成立)です [3]。図鑑の区分「諸説あり」は妥当ですが、実際は「伝説」に近い扱いが正確です。
そのうえで一点、訂正が必要です。図鑑が初出とする『関原軍記大成(せきがはらぐんきたいせい)』には、この和歌のやりとりが「見あたりません」(後述)[4][5]。
この話が最初に出てくる史料
『常山紀談』は岡山藩士・湯浅常山(ゆあさじょうざん)が、戦国から江戸初期の武将の言行を約470条集めた本です [3]。その巻之十三に、平塚為広が討ち取った首を大谷吉継のもとへ送り「冥途(めいど)の苞(つと=みやげ)に参らせ候」と伝え、歌を一首書き添えた、とあります。吉継は目が見えなかったので、甥の僧・祐玄(ゆうげん)に返事を書かせた、とも書かれています。
一方『関原軍記大成』は、関ヶ原をもっとも詳しく書いた江戸の軍記です。著者は宮川忍斎(尚古。1655〜1716年)[5]、序は元禄3年(1690年)[4]。図鑑の「1713」は正徳3年で、これは「写本を書き写した年」にあたり、成立年とは別です [4]。その巻之二十六「大谷吉隆自害附戸田平塚戦死」には、為広が横田小半助を突き伏せて首を吉継に送った話は載りますが、歌は一首も出てきません。代わりに「或説」として「先鋒の合戦是までなり。急ぎ切腹せらるべし」と言い送った、と書くだけです(確認方法は method_note に記します)。
異説や否定説
第一に、歌の文句が定まりません。為広の歌は「名のために」とする本 [1] と「君がため」とする本 [2] があり、吉継の返歌も「契りあらば」[1]、「契りとも」[8] と割れます。天保4年(1833年)成立の『改正三河後風土記』では、結びが「たがひありとも」です。「言葉が揺れること自体、書き写しと語り直しで変わってきた証拠」です。
第二に、『常山紀談』自身が「一説に、秀詮(=小早川秀秋)の士横田半介を討取り、其首を吉隆に送るともいへり」と、送った首について別説を併記しています。細部は最初から固まっていません。
第三に、この話が置かれている場所の性格です。事典は『常山紀談』を「史料的価値は低い」と評します [3]。逸話集は教訓のために編まれた読み物で、記録ではないからです。軍記も同じで、研究では「諸本の所在・成立」から吟味する対象として事典化されています [6]。
第四に、近年の研究状況も傍証になります。関ヶ原本戦の実態は、いまも一次史料(同時代の書状など)にもとづいて検討され直しています [7]。歴史学者・渡邊大門は為広の最期を細かく書きますが、辞世の交換にはまったく触れていません [9]。
後世にどう語られたか
『常山紀談』は約470条の逸話を集めた本で [3]、「読んで感心する話」を選んで並べる作りになっています。為広が首とともに歌を送り、吉継がすぐ「自分もあとを追う」と返す——この組み立ては、読み手が武士の心意気に感じ入るように整えられています。同じ本には、吉継が石田三成に挙兵を思いとどまるよう説いた話なども載り [8]、「友情の物語」としてまとめて読まれてきました。
明治以降、この歌は修身(しゅうしん=道徳)や武士道の本に繰り返し引かれました。国立国会図書館の全文検索でも、『日本武士道史』『禅と武士道』など明治〜昭和の修養書が同じ歌を載せています。昭和15年(1940年)には子孫の平塚定二郎(平塚らいてうの父)が戦死地に碑を建て [1]、いまは観光解説にも「義と勇の武将」として定着しています [1]。
なお図鑑の「『六の巷』が『六文銭を共に』の友情イメージへ転化した」という説明は、「裏づけとなる資料を見つけられませんでした」。「六の巷」は六道の分かれ道、つまり死後の世界の入口を指す言葉で [1]、六文銭と結びつける記述は確認できませんでした。
読者が次に抱く疑問
- 「目が見えない吉継が、どうやって返歌を書いたの?」——『常山紀談』は、甥の僧・祐玄に代筆させたと書きます。逆にいえば、そこまで書き込んだ「物語」だということです [3]。
- 「為広の辞世だけなら本当?」——人名事典も「君がためすつる命は惜しからじ…」を辞世として載せます [2]。ただし根拠は同じ江戸期の逸話で、同時代史料ではありません。
- 「なぜ『六の巷』なの?」——六道(ろくどう)は仏教でいう死後の六つの行き先で、その分かれ道が「六の巷」です [1]。つまり返歌は「あの世の入口で待っていてくれ」という意味になります。
- 「首を送った話はどこまで確か?」——首を送ったこと自体は『関原軍記大成』にも出ますが、誰の首かで説が割れ、同時代史料の裏づけはありません。
図鑑の記述への提案
- 「初出は『関原軍記大成』(1713)等」→「確認できる初出は『常山紀談』巻之十三(元文4年=1739年)。『関原軍記大成』(元禄3年序)には和歌のやりとりが見あたらない」に訂正 [3][4][5]。
- 「六文銭」への転化の記述は、出典が確認できないため削除するか「要検証」と明示してください。
- 歌の異文(「名のために/君がため」「契りあらば/契りとも」「事はありとも/たがひありとも」)を併記すると親切です [1][2][8]。
- 区分は「諸説あり」のままでよいですが、「同時代史料になく、江戸中期の逸話集が初出」と一行添えると誤解が減ります。
出典
- 平塚為広 碑 ― 関ケ原観光ガイド(関ケ原観光協会)(「“義”を貫き、“勇”を持ちて…」の節)現在ひろく流布している辞世と返歌の形は「名のために捨つる命は惜しからじ…」「契りあらば六つの巷に待て暫し…」であり、「六の巷」は六道の分かれ道と解説される。
「平塚隊は、関ケ原合戦時、大谷隊支援の為に自隊の進行方向を変え、裏切った小早川隊と激突しました。その時に詠まれた辞世の句には「名のために 捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思へば」(名誉の為に殉じられるなら、自分の命など惜しまない。限られた人生なのだから)とあります。これに対し大谷吉継は「契りあらば 六つの巷に待て暫し おくれ先立つ事はありとも」(共に死ぬ約束があるのだから六道の分かれ道でしばらく待っていて欲しい。遅れて、あるいは先に死ぬことはあっても)と返歌しました。」
- 平塚為広 ― コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus、講談社)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「平塚為広」【格言など】)人名事典は為広の辞世を「君がため」で始まる形で載せており、「名のために」とする通行の形と異文の関係にある。
「【格言など】君がためすつる命は惜しからじつひにとまらぬ浮世と思へば(辞世)」
- 常山紀談 ― コトバンク(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「常山紀談」)『常山紀談』は元文4年(1739年)成立の江戸中期の軍談書で、名将の逸話約470条を集めたものであり、事典は史料的価値が低いと評価する。
「江戸時代中期の軍談書。湯浅常山著。 25巻。元文4 (1739) 年成立。戦国時代から江戸時代初期にわたる約 50年間の名将諸士の言行,逸行,逸事に関する雑談を約 470条に集めたもの。文章が平明で,痛快な読み物として流布し,刊本も多い。」
- 『関原軍記大成』を探している。 ― レファレンス協同データベース(国立国会図書館/近畿大学中央図書館)(回答プロセス(日本古典籍総合目録データベース 著作ID 343146))日本古典籍総合目録によれば『関原軍記大成』の著者は宮川忍斎、成立年は「元禄三序」であり、正徳三年は現存写本の書写年である。
「分類 戦記著者 宮川/忍斎成立年 元禄三序国書所在【写】内閣(四五巻四五冊),東博(正徳写四五冊),学士院(巻五、一冊),九大(正徳三写四五巻二三冊)」
- 関原軍記大成 1(国史叢書) ― NDLサーチ/国立国会図書館デジタルコレクション(書誌情報(国立国会図書館永続的識別子 info:ndljp/pid/948820))『関原軍記大成』の活字本は大正5年に国史研究会から国史叢書の一冊として刊行され、著者は宮川忍斎(1655-1716)である。
「著者・編者宮川尚古 [著]黒川真道 編シリーズタイトル国史叢書著者標目宮川, 忍斎, 1655-1716黒川, 真道, 1866-1925出版事項東京 : 国史研究会出版年月日等大正5」
- 戦国軍記事典 天下統一篇(古典遺産の会編、和泉書院、2011年) ― NDLサーチ(紹介文(参考図書紹介))戦国期の軍記は、書名・別称・諸本の所在・刊本・成立などを吟味したうえで扱うべき対象として事典化されている。
「織田信長の登場以降、島原の乱までの軍記を解説。書名及び別称、諸本の所在、刊本、類書、成立、内容などを付す。各軍記を織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が関わった合戦別に掲出するほか、年代記や武将記、逸話集なども採録。」
- 白峰旬「関ヶ原の戦いにおける9月15日当日の実戦の状況について(その1)」『別府大学紀要』54号 ― NDLサーチ(書誌情報(別府大学紀要 54号、2013年2月、53-65頁))関ヶ原本戦当日の実戦の様子は、近年も学術誌上で検討が続けられている論点である。
「著者白峰 旬出版者別府 : 別府大学会出版年2013-02資料形態紙掲載誌名別府大学紀要 = Memoirs of Beppu University / 別府大学紀要委員会 編 (54):2013.2掲載ページp.53-65」
- 大谷吉継 ― ウィキペディア日本語版(補助)(「関ヶ原の戦い」節)吉継の返歌の初句は「契りとも」とする形でも伝わり、為広の歌にも「名のために」「君がため」の二通りがあるほか、吉継が三成に挙兵を思いとどまるよう説いたという逸話も『常山紀談』由来のものとして紹介されている。
「辞世の句は「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」で、これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。」
- 渡邊大門「大谷吉継と共に散った平塚為広。西軍武将の知られざる忠義に迫る」(Yahoo!ニュース エキスパート、2025年9月29日)(本文中ほど(為広の戦死の経緯))歴史学者による為広の最期の詳しい解説は、討ち取られた経緯の異説までふれる一方、辞世の交換にはまったく言及していない。
「一説によると、為広は山内一豊の軍勢と戦い、樫井多兵衛に討ち取られたという。異説としては、馬上の為広は横田小半助(秀秋の小姓)に槍で突かれたが、反撃して返り討ちにした。その後、柏井太郎兵衛(山内一豊の家臣)に槍で討ち取られたとも伝わっている。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。