〈大谷吉継〉湯浅五助が首を隠し、藤堂高刑が約束を守った
「わが首を敵に渡すな」の命で五助が首を埋め、来合わせた藤堂高刑に他言無用を頼んで討たれた——初出は『常山紀談』(18世紀)で問答は脚色の可能性が高い。ただし吉継の首だけが実検に供されなかったと伝わる点、関ケ原に主従の墓が並び藤堂家が守ったとされる点は、伝承に一定の実態が伴うことを示唆する。米原の首塚(甥・祐玄が持ち帰った)という異伝もある。
検証リサーチ
「〈大谷吉継〉湯浅五助が首を隠し、藤堂高刑が約束を守った」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
同時代史料では確かめられず、江戸〜明治の編纂物にしか出てこない伝承。区分「諸説あり」は妥当だが「初出は『常山紀談』」は確認できず、詳しい問答は明治の『日本戦史 関原役』補伝で広まった。
くわしい根拠
結論
この逸話は、関ヶ原当時の書状や日記といった一次史料では確かめられませんでした。いま広く読まれている形は、江戸時代から明治時代にかけての編纂物(後の時代にまとめられた本)に載るものです。ですから「史実」と言い切ることはできず、区分の「諸説あり」自体は妥当です。ただし図鑑が書く「初出は『常山紀談』(18世紀)」は、今回わたしが公開されているテキストで裏づけられませんでした。詳しい問答つきの物語がまとまった形で載るのは、明治26年(1893)刊の参謀本部編『日本戦史 関原役』の「補伝」で、この「補伝」は近年、井上泰至の論文で研究対象にもなっています[7]。
この話が最初に出てくる史料
『常山紀談』は岡山藩士・湯浅常山(1708〜81)の逸話集です。元文4年(1739)の自序があり、刊行は著者の没後、文化・文政期(1804〜30)でした[4]。つまり関ヶ原から140年以上あとの本です。事典の評価も厳しく、ブリタニカ国際大百科事典は約470条の雑談を集めた軍談書として「史料的価値は低い」と明記します[4]。かりに『常山紀談』に載っていたとしても、それは「初出=史実の証拠」にはなりません。
一方、今日ネットや小説で引かれる細部——五助が槍で討たれる場面、家康の詰問、本多正信を通した返答、刀と槍の拝領——は、参謀本部『日本戦史 関原役』の補伝「藤堂仁右衛門湯浅五助ノ約ヲ変セス」に拠っています[8]。ウィキペディア日本語版もこの節を参考文献に挙げます[8]。補伝は近代の陸軍が編んだ読み物的な付録で、江戸期の家譜や覚書を材料にしています。この補伝そのものの性格を論じた研究が、井上泰至「『日本戦史 関原役』における「補伝」の意義」(『軍事史学』53巻1号、2017年、4〜20頁)です[7]。
異説や否定説
第一に、伝承の中身が一定していません。図鑑は「五助が首を埋め、他言無用を頼んだ」と書きますが、関ケ原町の観光公式サイトは「五助は主人の首の在処を藤堂に正直に伝え、供養を頼んだ上で討たれました」と、逆向きに近い書き方をしています[2]。同じ話が語り手によって揺れているわけです。
第二に、首の行方に別伝があります。滋賀県米原市下多良には吉継の首塚と伝える石塔があり、市の説明では、甥の僧・祐玄が首を錦の袋に入れ、敦賀へ逃げる途中でこの地に埋め隠したと伝えます[1]。ただし米原市自身が、江戸時代に彦根藩士が著した地誌『淡海木間攫』はこの塚を長束正家の墓としており、『改訂近江国坂田郡志』第2巻(1941年)がそれを否定して吉継説を採った、という経緯を書いています[1]。つまり米原の首塚も、近代になって比定し直されたものです。
第三に、前提となる吉継像も断定できません。日本大百科全書は「ハンセン病で目が見えず、駕籠に乗って戦闘を指揮したと伝える」と、伝聞の形で書いています[5]。研究側でも外岡慎一郎『大谷吉継』(戎光祥出版、2016年)が「本当に義に殉じたのか?」と問いを立て、等身大の姿を描くことを掲げています[6]。
後世にどう語られたか
関ヶ原の墓は、国指定史跡「関ヶ原古戦場」の附(つけたり)として1931年(昭和6)3月30日に指定されました。そのときの名称は「大谷吉隆墓」で、吉継ではなく吉隆と書かれています[3]。隣に並ぶ湯浅五助の墓は、ウィキペディアによれば大正5年(1916年)に五助の子孫が建てたものです[9]。主従の墓が寄り添う今の景観は、少なくとも五助側については近代にできあがったことになります。
流れとしては、江戸期の藤堂家まわりの記録 → 明治の『日本戦史』補伝 → 昭和以降の小説やテレビドラマ、という順に広がりました。
読者が次に抱く疑問
吉継の首は結局どこにあるの? 今回調べた範囲では、東軍の首実検の記録で吉継の首を確認した一次史料は見つかりませんでした。関ヶ原の墓も米原の首塚も、いずれも「伝えられている」段階です[1][3]。
なぜ藤堂家の話ばかり残るの? この逸話の材料は藤堂家側の記録です。手柄と誠実さを同時に語る話は、家の名誉を伝える文脈で書き残されやすい、という割引が要ります[7][8]。
湯浅五助はどんな人? 生年も素性も不明で、大谷家の重臣だったと伝わるだけです[8]。人物像の多くは後世の物語に依っています。
図鑑の記述への提案
- 区分は「諸説あり」のままでよいですが、本文の冒頭で「同時代史料では確認できない伝承」と明示することを提案します。
- 「初出は『常山紀談』(18世紀)」は、断定を避けてください。今回、公開テキストで該当条を確認できませんでした。「江戸期の藤堂家ゆかりの記録に材料があり、明治26年の参謀本部『日本戦史 関原役』補伝でまとまった形になった」と書き替えるのが安全です[7][8]。
- 「吉継の首だけが実検に供されなかったと伝わる」は、裏づけが伝承のみなので「後世の編纂物はそう記す」と限定してください。
- 「藤堂家が守った」の隣に、五助の墓は大正5年(1916年)に子孫が建てた新しいものだ、と一言添えると誤解が減ります[9]。
- 「米原の首塚(甥・祐玄が持ち帰った)」は、正確には「敦賀へ逃げる途中に埋めたと伝える塚」で、江戸期の地誌では長束正家の墓とされていた、と補足すると異説の厚みが伝わります[1]。
- 史跡の指定名称は「大谷吉隆墓」です。表記のゆれを注記しておくと親切です[3]。
出典
- 大谷吉継/米原市(米原の偉人たち)(本文「下多良に残る首塚」)米原市下多良の首塚は甥の僧・祐玄が敦賀への逃亡途上に埋めたと伝えるが、江戸期の地誌『淡海木間攫』は長束正家の墓とし、1941年の『改訂近江国坂田郡志』がそれを否定して吉継説を採った。
「江戸時代に彦根藩士によって著された『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』では、この塚を水口城主だった長束正家(なつかまさいえ)の墓と記しています。ところが『改訂近江国坂田郡志』第2巻(1941年)によれば、正家は関ケ原合戦後蒲生郡で自害し、その首は京へ送られており、正家の首塚ではないとしたうえで、関ケ原での小早川秀秋の裏切りによって、西軍の敗北を悟った吉継が、敵に首を渡さないよう、湯浅五助の介錯(かいしゃく)で自刃し、甥の僧祐玄が首を錦の袋に入れて、敦賀への逃亡の途上に、この地に埋め隠したといわれています。」
- 大谷吉継 墓・湯淺五助 墓|スポット情報|関ケ原観光ガイド(スポット解説本文)関ケ原の観光公式サイトは、五助が首の在処を藤堂高刑に「正直に伝え」供養を頼んだ、という図鑑とは異なる筋で同じ逸話を紹介している。
「その後、吉継の首は五助の手により埋め隠され、五助も討ち入りますが、藤堂仁右衛門高刑(藤堂高虎の甥)に捕らわれてしまいました。その時、五助は主人の首の在処を藤堂に正直に伝え、供養を頼んだ上で討たれました。敵ながらに感心した藤堂は、家康からの詰問にも決して吉継の首の所在を口外せず、合戦後、約束通り大谷吉継の墓をこの地に建てたとされています。」
- 関ヶ原古戦場 附 徳川家康最初陣地…大谷吉隆墓…|国指定文化財等データベース(文化庁)(主情報(種別:史跡/指定年月日1931.03.30))国指定史跡の正式名称には附属物として「大谷吉隆墓」が含まれ、吉継ではなく吉隆と表記されている(同ページに指定年月日1931.03.30=昭和6年3月30日と記載)。
「名称 : 関ヶ原古戦場 附 徳川家康最初陣地 徳川家康最後陣地 石田三成陣地 岡山烽火場 大谷吉隆墓 東首塚 西首塚 ふりがな : せきがはらこせんじょう つけたりとくがわいえやすさいしょのじんち とくがわいえやすさいごのじんち いしだみつなりじんち おかやまのろしば おおたによしたかはか ひがしくびづか にしくびづか」
- 常山紀談とは|コトバンク(ブリタニカ国際大百科事典ほか)(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の項)『常山紀談』は元文4年(1739)成立の逸話集で、約470条の雑談を集めた軍談書であり、事典は「史料的価値は低い」と評価している。
「江戸時代中期の軍談書。湯浅常山著。 25巻。元文4 (1739) 年成立。戦国時代から江戸時代初期にわたる約 50年間の名将諸士の言行,逸行,逸事に関する雑談を約 470条に集めたもの。文章が平明で,痛快な読み物として流布し,刊本も多い。江戸時代には6冊本,21冊本,30冊本があり,明治になってからも数種刊行された。多くは『常山紀談拾遺』 (4巻) ,付録『雨夜灯』 (1巻) がつく。史料的価値は低い。」
- 大谷吉継とは|コトバンク(日本大百科全書ほか)(日本大百科全書(ニッポニカ)の項)吉継の病状(ハンセン病で失明し駕籠で指揮した)は事典でも「と伝える」と伝聞の形で示されており、断定されていない。
「関ヶ原の戦いでは、徳川家康の会津(あいづ)攻めに従うつもりで、敦賀から美濃(みの)(岐阜県)の垂井(たるい)まできたが、親友の石田三成に懇請され、敗戦覚悟で西軍に加わった。終始よく戦ったが、寝返りをした小早川秀秋(こばやかわひであき)の大兵に側背から攻撃を受け、奮戦のすえ陣没した。ハンセン病で目が見えず、駕籠(かご)に乗って戦闘を指揮したと伝える。」
- シリーズ・実像に迫る002 大谷吉継(外岡慎一郎著、戎光祥出版、2016年)(商品説明(2016年10月刊行、A5判95頁))近年の研究書は「本当に義に殉じたのか」と通説的な吉継像そのものを再検討の対象としている。
「オールカラー! 1・2巻同時刊行。 なぜ、名将と讃えられるのか。 無謀と知りつつも、関ヶ原に散った潔い死にざま。 だが、本当に義に殉じたのか? 霧につつまれた等身大の姿を描き出す!」
- 井上泰至「『日本戦史 関原役』における「補伝」の意義」『軍事史学』53(1)(国立国会図書館サーチ)(書誌情報(軍事史学53巻1号、2017年6月、4-20頁))『日本戦史 関原役』の「補伝」は、その編纂の意義自体が学術論文の主題となる近代の編纂物である。
「『日本戦史 関原役』における「補伝」の意義(特集 戦争と文学考)国立国会図書館請求記号Z2-117国立国会図書館書誌ID028369046資料種別記事著者井上 泰至出版者東京 : 錦正社出版年2017-06資料形態紙掲載誌名軍事史学 / 軍事史学会 編 53(1)=209:2017.6掲載ページp.4-20」
- 湯浅五助 - Wikipedia(生涯の節)図鑑が紹介する通説の形(首を埋め、他言無用を頼んで討たれ、高刑が家康の詰問にも口を割らなかった)は、参謀本部『日本戦史 関原役』の補伝を参考文献とする形でまとめられている。
「五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。埋め終わった時に、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されると、「主人は病み崩れた顔を人目に晒したくないと言い遺された。我が首を差し出します故、代わりに主君の首をここに埋めた事を秘して下さらぬか」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。」
- 湯浅五助 - Wikipedia(墓の節)(生涯の節(末尾))関ヶ原に並ぶ湯浅五助の墓は大正5年(1916年)に子孫が建てたもので、吉継の墓とは建立時期が大きく異なる。
「墓は、岐阜県関ケ原町に存在する。合戦後まもなく藤堂家によって建立された大谷吉継の墓の隣に、大正5年(1916年)、五助の子孫により建立されたものである。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。