〈大谷吉継〉佐和山で三成を三度諫めた

「無謀であり勝機なし」と三度諫めたという場面は『常山紀談』『関原軍記大成』など江戸期編纂物由来で、会話の再現は文学的脚色。ただし会津征伐に従軍予定だった吉継が佐和山に立ち寄り、その後西軍に転じたこと自体は行動として確かである。「お主は横柄で人望がない」の諫言は『落穂集』にも見える。

検証リサーチ

「〈大谷吉継〉佐和山で三成を三度諫めた」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 88 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

「諸説あり」が妥当。佐和山での諫言場面は同時代史料になく、『慶長見聞書』(1651年)以降の編纂物に現れる。『常山紀談』(1739年)はむしろ後発で、「三度」の回数も原文に確認できない。

くわしい根拠

結論

この逸話は「史実の骨組みに、後世の脚色が乗ったもの」です。大谷吉継が徳川家康の会津征伐に従うつもりで敦賀を出発し、美濃の垂井まで来たところで石田三成に呼ばれ、最後は西軍に加わった、という行動の流れは事典類も認めています[4]。しかし「佐和山で三度諫めた」という場面、とくに二人のやりとりの言葉は、同時代の書状や日記ではなく、関ヶ原から半世紀以上あとに書かれた編纂物(へんさんぶつ=後の人がまとめた本)にしか出てきません。図鑑の区分「諸説あり」は妥当ですが、初出史料の説明には直したい点があります。

この話が最初に出てくる史料

図鑑は『常山紀談』『関原軍記大成』を挙げますが、成立年を並べると、この二つより古い記述があります。

  • 『慶長見聞書』…慶安4年(1651年)に浅羽成儀が書いたもので、松平文庫(福井県立図書館保管)に伝わり、吉継の関ヶ原での様子を伝える記録のひとつです[7]。敦賀市立博物館長の外岡慎一郎氏は、この本から佐和山での説得の場面を引いています(講演録『福井県文書館研究紀要』14、2017年、https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615578.pdf )。関ヶ原の51年後です。
  • 『関原軍記大成』…著者の宮川忍斎は1647年生まれ、享保元年11月27日(1717年)没[3]。18世紀初めまでの成立で、関ヶ原の百年ほど後です。
  • 『落穂集』…大道寺友山の著。成立は1727年(享保12年)冬[2]。127年後です。
  • 『常山紀談』…湯浅常山の著。元文4年(1739年)成立[1]。139年後で、この中では最も新しい部類です。

つまり『常山紀談』はこの話の初出ではなく、先行する合戦記をまとめ直した本と見るのが正確です。ブリタニカ国際大百科事典は『常山紀談』を「史料的価値は低い」と評しています[1]。

「三度」という回数はどこから来たか

『常山紀談』の筋を追うと、7月2日に三成が吉継を佐和山城に招いて密談し、吉継は数日滞在して考え、7日に垂井へ去り、家臣の平塚為広を使いに出して重ねて忠告し、11日に佐和山へ戻って同意した、という流れです[5]。諫めた場面を数えれば2〜3回になりますが、「三度」という数え方そのものは、今回確認できた範囲の江戸期の記述や事典類には見当たりませんでした(確認方法は method_note)。関ヶ原の顕彰碑の説明も「いさめたが聞き入れられなかった」までで、回数は言いません[8]。

異説や否定説

  1. 「立ち寄った」のか「呼ばれた」のか … 日本大百科全書は「敦賀から美濃(岐阜県)の垂井まできたが、親友の石田三成に懇請され」と書き、佐和山に立ち寄ったとはしません[4]。図鑑の「立ち寄り」は一方の言い方です。
  2. 日付が合わない … 『常山紀談』は7月2日から11日の話にしますが[5]、近年の通史は7月10日ごろの出来事とします。江戸の逸話の日付をそのまま史実には使えません。
  3. 動機そのものへの異説 … 吉継は宇喜多騒動(宇喜多家の内紛)の調停を家康の下で担っており、西軍参加は友情だけでなく吉継自身の政治判断だった、とする見方が研究にはあります(前掲・外岡氏講演録)。
  4. 「義に殉じた」という像への疑問 … 外岡慎一郎『大谷吉継』(戎光祥出版、2016年)は、内容紹介で「無謀と知りつつも、関ヶ原に散った潔い死にざま。だが、本当に義に殉じたのか?」と問いかけています[9]。

いっぽう「お主は横柄で人望がない」という諫言は、図鑑の記述どおり『落穂集』に見えます。原文は「殊外へいくわい(横柄)に候とて、諸大名を始め末々の者迄も日比(頃)あしく取沙汰を仕る由也」です[6]。ここは現在の記述で問題ありません。

後世にどう語られたか

昭和15年(1940年)、不破古跡保存会が関ヶ原に大谷吉継顕彰碑を建てました。碑は「大谷吉継は石田三成の挙兵をいさめたが聞き入れられなかったため、意を決して西軍に与し奮戦したものの衆寡敵せず自害した」という筋を、武士道の模範として称える内容です[8]。江戸時代の逸話集の話が、近代の顕彰と道徳教育の文脈で石に刻まれ、決定版のように扱われた、という流れが見てとれます。

読者が次に抱く疑問

  • 会話の言葉づかいまで残っているのはなぜ?…江戸の合戦記の作者たちは調べて書いてもいますが、50年から140年後に会話をそのまま再現することはできません。「こう言ったはずだ」という書き手の理解が必ず入ります。
  • では吉継はなぜ西軍についたのか?…友情説と、家康との関係のなかで自分で決めたとする政治判断説があります。決着はついていません[9]。
  • 「三度」は誰が数えたのか?…江戸期の原文で確認できず、後世の要約のなかで固まった数え方の可能性が高いです。

図鑑の記述への提案

区分「諸説あり」は維持でよいと考えます。そのうえで本文を次のように直すことを提案します。

  • 「『常山紀談』『関原軍記大成』など江戸期編纂物由来」→ より古い『慶長見聞書』(慶安4年=1651年)にすでに佐和山での説得場面があり、『常山紀談』(元文4年=1739年)はむしろ後発、と補う[1][7]。
  • 「三度諫めた」については、「三度」という回数が江戸期の記述に確認できない旨を一言添える[5]。
  • 「佐和山に立ち寄り」は、「垂井まで来たところで三成に呼ばれた」とする事典もあることを併記する[4]。
  • 西軍参加の理由に、宇喜多騒動などをめぐる政治的立場から吉継自身が決めたとする見方を加える[9]。
  • 『落穂集』についての記述は正確なので、原文「殊外へいくわい(横柄)に候とて…」を添えるとさらに強くなる[6]。

出典

  1. 常山紀談(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ほか)(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「常山紀談」の項)
    『常山紀談』は湯浅常山の著で元文4年(1739年)成立の逸話集であり、ブリタニカ国際大百科事典は史料的価値は低いと評価している。
    「江戸時代中期の軍談書。湯浅常山著。 25巻。元文4 (1739) 年成立。戦国時代から江戸時代初期にわたる約 50年間の名将諸士の言行,逸行,逸事に関する雑談を約 470条に集めたもの。文章が平明で,痛快な読み物として流布し,刊本も多い。江戸時代には6冊本,21冊本,30冊本があり,明治になってからも数種刊行された。多くは『常山紀談拾遺』 (4巻) ,付録『雨夜灯』 (1巻) がつく。史料的価値は低い。」
  2. 落穂集(コトバンク/山川 日本史小辞典 改訂新版ほか)(山川 日本史小辞典 改訂新版「落穂集」の項)
    『落穂集』は大道寺友山の著で、成立は1727年(享保12年)冬であり、関ヶ原から127年後の編纂物である。
    「徳川家康とその周辺に関する聞書を編年体でまとめた書。30巻。大道寺友山(ゆうざん)著。成立は1727年(享保12)冬。1542年(天文11)の家康誕生に始まり,大坂落城後の1615年(元和元)7月の改元に終わる。」
  3. 宮川忍斎(コトバンク/デジタル版 日本人名大辞典+Plus)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「宮川忍斎」の項)
    『関原軍記大成』の著者・宮川忍斎は1647年生まれ1717年没の兵法家で、同書は18世紀初めまでに成立した後世の編纂物である。
    「1647-1717 江戸時代前期-中期の兵法家。正保(しょうほ)4年生まれ。若狭(わかさ)(福井県)の人。若狭小浜(おばま)藩につかえたのち,江戸で長沼流兵学をおさめて宮川流をひらく。晩年目の治療のため筑前(ちくぜん)にいき,福岡藩につかえた。享保(きょうほう)元年11月27日死去。70歳。名は尚古。著作に「関ケ原軍記大成」。」
  4. 大谷吉継(コトバンク/日本大百科全書(ニッポニカ))(日本大百科全書(ニッポニカ)「大谷吉継」の項)
    日本大百科全書は、吉継が会津攻めに従うつもりで敦賀から垂井まで来たところで三成に懇請され西軍に加わったとし、佐和山に立ち寄ったとは書いていない。
    「関ヶ原の戦いでは、徳川家康の会津(あいづ)攻めに従うつもりで、敦賀から美濃(みの)(岐阜県)の垂井(たるい)まできたが、親友の石田三成に懇請され、敗戦覚悟で西軍に加わった。」
  5. 大谷吉継(ウィキペディア日本語版)(「人物・逸話」節(『常山紀談』の記述の紹介部分))
    『常山紀談』が伝える佐和山の場面は、7月2日の密談、数日の滞在、7日の垂井行きと平塚為広を介した再度の忠告、11日の再訪と同意、という流れで書かれている。
    「7月2日、三成は吉継を佐和山城に招いて密談を行った。三成は「上杉景勝が家康に対して挙兵した以上、豊臣家のためにこれを支援すべきである」として、打倒家康に向けた決起の意思を語った。このとき吉継はすでに病を患い、視力を失いかけていた。彼は家康と景勝の間を調停する可能性も考慮し、三成に対し挙兵の成功が困難であることや、戦いの得失を冷静に説き、翻意を促した。しかし三成の決意は固く、吉継に対しても豊臣家のために力を貸してほしいと強く求めた。吉継は佐和山に数日間滞在しながら深く熟慮したが、容易に結論を出すことはできなかった。7日に佐和山を去って垂井へ向かい、さらに家臣の平塚為広を三成のもとに遣わして再度の忠告を試みたものの、三成の意志は揺るがなかった。吉継は旧友を見捨てて東軍に与することを友情の上から忍びがたく思い悩み、ついに意を決して11日に佐和山へ戻り、三成と行動を共にする覚悟を固めたという。」
  6. 大谷吉継(ウィキペディア日本語版)注釈(注釈欄(『落穂集』引用の注))
    「横柄で人望がない」という趣旨の諫言は『落穂集』にあり、原文は「殊外へいくわい(横柄)に候とて…」である。
    「大道寺友山『落穂集』では、三成に対して「殊外へいくわい(横柄)に候とて、諸大名を始め末々の者迄も日比(頃)あしく取沙汰を仕る由也」とある。」
  7. 大谷吉継の子孫たち 福井藩士大谷氏(福井県文書館 平成27年7月ミニ展示)(「大谷吉継の最期」の項)
    『慶長見聞書』は松平文庫(福井県立図書館保管)に伝わり、関ヶ原における大谷吉継の様子を伝える記録のひとつである。
    「「慶長見聞書」 松平文庫(福井県立図書館保管) 関ヶ原の戦いでの西軍の将大谷吉継の最期の場面などを伝える記録のひとつです。」
  8. 大谷吉継顕彰碑(岐阜県観光公式サイト「岐阜の旅ガイド」)(スポット解説本文(出典表記:岐阜関ケ原古戦場記念館 関ケ原メモリアル))
    昭和15年(1940年)に建てられた大谷吉継顕彰碑は、三成の挙兵をいさめたが聞き入れられず西軍に与したという筋を武士道の模範として称えている。
    「昭和15年(1940年)に不破古跡保存会によって顕彰碑は設置され、顕彰碑は大谷吉継の最後を武士道の模範として称える内容となっています。要旨は次の通りです。「 大谷吉継は石田三成の挙兵をいさめたが聞き入れられなかったため、意を決して西軍に与し奮戦したものの衆寡敵せず自害した。」
  9. シリーズ・実像に迫る002 大谷吉継(外岡慎一郎著、戎光祥出版、2016年10月刊)(書誌・内容紹介欄)
    研究者による近年の伝記は「本当に義に殉じたのか」と問い直す立場をとっており、義に殉じたという通説的な像は検証の対象になっている。
    「外岡慎一郎 著 2016年10月刊行 A5判/並製/95頁 オールカラー! 1・2巻同時刊行。 なぜ、名将と讃えられるのか。 無謀と知りつつも、関ヶ原に散った潔い死にざま。 だが、本当に義に殉じたのか? 霧につつまれた等身大の姿を描き出す!」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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