〈小早川秀秋〉死因はアルコール性の肝疾患

名医・曲直瀬玄朔の診療録『医学天正記』(一次史料)に、18〜19歳の秀秋を「酒疸」——大量飲酒による黄疸——で治療した記録が残り、玄朔自身が原因を酒と診断。現代の医師による検討でもアルコール性肝硬変説が最有力である。近衛信尹の追悼文も、少年期から飲み明かして北政所を悩ませたと伝える。

検証リサーチ

「〈小早川秀秋〉死因はアルコール性の肝疾患」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

診療録『医学天正記』に「酒疸」の記録があるのは事実。ただし数え18〜19歳の記録で、死因を書いた史料ではない。江戸期の史料はむしろ「大谷吉継の祟り」説。区分は諸説ありで妥当。

くわしい根拠

結論

秀秋が十代のうちに大量の酒で黄疸(おうだん、体が黄色くなる症状)を起こし、当時の名医・曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が「酒疸(しゅたん)」——酒による黄疸——と診断した。ここまでは玄朔自身の診療録に残っており、史実といってよい[1][7][8]。だが「その病気で死んだ」と書いた同時代の史料は確認できない。診療録に書かれた年齢は「十八九歳」、つまり数え18〜19歳で、亡くなった数え21歳のときの記録ではない[1]。逆に江戸時代の本は「大谷吉継の祟(たた)りで狂って死んだ」と書く[2][5][9]。アルコール性肝疾患説は、現代の医師が診療録を読み直して立てた推定であり[6]、歴史学の定説ではない。図鑑の区分「諸説あり」は妥当。ただし本文には直したい点がある。

この話が最初に出てくる史料

初出は『医学天正記』(いがくてんしょうき)。曲直瀬玄朔が1576年(天正4)から1606年(慶長11)までの自分の診療記録を整理したもので、1607年に成立した2巻の本である[7]。玄朔は正親町(おおぎまち)天皇・後陽成(ごようぜい)天皇・豊臣秀次らを診た当代一の医師[8]。患者の実名・年齢・症状・処方が並ぶ、いわば当時のカルテで、後世の軍記物(いくさ物語)とは性格がまるで違う。

その「黄疸」の項に「中納言秀秋公、十八九歳」として「酒疸一身黄、心下堅滿、而痛不飲食渇甚」(酒による黄疸で全身が黄色い。みぞおちが硬く張って痛み、食べられず、のどの渇きがひどい)とある[1]。別に「内傷附飲食」の項にも「備前中納言秀秋公」として「酒渇嘔吐、胸中煩悶全不食、尿赤舌黒乾、脉細數」(酒を飲むと吐く、胸が苦しく食べられない、尿が赤く舌が黒く乾く、脈が細く速い)とある[1]。玄朔が付けた病名が「酒疸」である以上、原因を酒と見たのは確かだ[6]。

ただし注意が3つ。(1)年齢が「十八九歳」で、死んだ年(数え21)の記録ではない。(2)日付は「七ノ五」(七月五日)としか書かれず、何年かは記されていない。(3)これは病気の記録であって、死因を書いた記録ではない。なお国立国会図書館デジタルコレクションのOCR全文で見ると、黄疸の項の見出しは「岡山中納言秀秋公」、内傷の項は「備前中納言秀秋公」と読め、翻刻(ほんこく、活字に起こしたもの)によって細かな差がある。

異説や否定説

江戸時代の書物はまったく別の話を伝える。正徳3年(1713年)成立の『関原軍記大成』は、裏切りで討たれた大谷吉継の祟りで秀秋が狂気に陥ったと書き[2][3]、土肥経平(どひつねひら)の『備前軍記』(安永三年の写本が伝わる)も「狂気の末に横死した」とする[2][9]。吉継が「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」と言って切腹したという話も、あくまで伝承・噂として扱われている[5]。つまり近世の通説は「酒」ではなく「祟り」だった。

現代医学からの説も一枚岩ではない。脳神経外科医・若林利光氏は『医学天正記』の記述から肝硬変と考え、さらに肝性脳症(かんせいのうしょう、肝臓が悪くなって判断力が落ちる状態)を併発していた可能性を指摘した[6]。しかし同じ記事で小和田哲男・静岡大名誉教授は「寝返りの遅れは東西どちらが有利か最後まで迷っていたとするのが通説だ」と述べ、医学からの解釈は一つの見方だとしている[6]。

近衛信尹(このえのぶただ)の追悼文にも慎重さがいる。日本語版Wikipediaはこの追悼文の典拠を木下家古写『系図』とするが[4]、同じ注は別の箇所で「聖護院道澄の残した記録」の典拠にもなっており、出典の扱いが整理されていない。追悼文そのものの原文は今回確認できなかった。

後世にどう語られたか

江戸時代は「祟り・狂死」で語られ、幕末には月岡芳年が吉継の亡霊に怯える秀秋を描いた[2]。「酒が死因」という語り口が広まるのは近代以降、『医学天正記』が『史籍集覧』第26冊などで活字になって読めるようになってからで、テレビ番組(2015年)や新聞報道(2016年)で一般に知られるようになった[6]。

読者が次に抱く疑問

「酒疸」はそのまま肝硬変のことか。 ちがう。「酒疸」は漢方の病名で、酒のあとに出る黄疸を指す言い方であり、現代の診断名と一対一で対応しない。ウイルス性肝炎や胆道の病気でも黄疸は出るので、史料だけで確定はできない。

十代で肝硬変になるのか。死の3日前まで鷹狩りができたのはなぜか。 秀詮(ひであきの改名後の名)は10月15日に鷹狩りをして帰城後に倒れ、18日寅の刻(午前4時ごろ)に死去した[2]。数日での急変で、慢性の肝疾患だけで説明しきれるかは議論の余地がある。

毒殺説はあるのか。 今回調べた範囲では、同時代史料にも近世の編纂物にも毒殺を述べたものは見つからなかった。

図鑑の記述への提案

  1. 「死因」と「病歴」を書き分ける。『医学天正記』が記すのは数え18〜19歳のときの診療で、死亡時の記録ではない[1]。「死の2〜3年前に酒疸で治療を受けた記録がある」と書くのが正確。
  2. 「現代の医師による検討でもアルコール性肝硬変説が最有力」は、若林利光氏の研究など具体的な出典を添え、「歴史学の定説ではなく現代医学からの推定」と明記したい[6]。同じ記事で小和田哲男氏が慎重な見方を示している点も添えたい[6]。
  3. 近衛信尹の追悼文は典拠が確認できないため、「〜と伝えられる」に弱めるか、原典が確認できるまで外すのが安全[4]。
  4. 江戸時代の史料が「大谷吉継の祟りで狂死」と書いていること[2][3][9]を加えると、「酒が死因」という話が近代以降の読み直しだと読者に伝わる。
  5. 区分は「諸説あり」のままでよい。

図表

『医学天正記』が記す秀秋の年齢
十八九歳数え年
死去した数え21歳ではなく、その2〜3年前の診療記録。
出典: [1] 小早川秀秋 - Wikipedia(注釈:『醫學天正記』の翻刻引用)
発病から死去まで
3日
10月15日の鷹狩り後に倒れ、18日寅の刻に死去。
出典: [2] 小早川秀秋 - Wikipedia(晩年)
祟り説を載せる『関原軍記大成』の成立
1713年(正徳3)
秀秋の死から111年後の編纂物。
出典: [3] 小早川秀秋 - Wikipedia(関ヶ原の戦い)

出典

  1. 小早川秀秋 - Wikipedia(注釈:『醫學天正記』の翻刻引用)(注釈(『醫學天正記』引用、近藤瓶城編『史籍集覧 第二十六冊』p.442・461))
    『醫學天正記』は数え18〜19歳の秀秋を「酒疸」「内傷附飲食」の項で診療した記録を載せ、死亡時の記録ではない。
    「曲直瀬玄朔著『醫學天正記』(医学天正記)には18-19歳(数え歳)の秀秋(原文は「備前中納言秀秋公、年十八 九歳」)診察時の情報が載っており、乾上に「内傷附飲食 十三」には「酒渇嘔吐、胸中煩悶全不食、尿赤舌黒乾、脉細數(以下、薬の処方の説明なので略)」、乾下に「黄疸 三十六」には「酒疸一身黄、心下堅滿、而痛不飲食渇甚(薬説明、中略)○黄色少減、心中悸動心遠、脉遅用(薬説明、略)」とある。」
  2. 小早川秀秋 - Wikipedia(晩年)(晩年)
    秀詮は10月15日の鷹狩り後に倒れ18日に死去し、江戸期の『関原軍記大成』『備前軍記』は死因を大谷吉継の祟りによる狂気とする。
    「10月15日、秀詮は鷹狩りを行い、日暮れに岡山城に帰城すると気分が悪くなり、そのまま臥せった。10月18日寅の刻(午前4時頃)、秀詮は岡山城で死去した。享年21。秀詮の早世に関しては、関ヶ原における裏切りで戦死した大谷吉継の祟りによって、狂気に陥ったものとする逸話が『関原軍記大成』に記されている。このほか、『備前軍記』においても、「狂気の末に横死した」と記されている。」
  3. 小早川秀秋 - Wikipedia(関ヶ原の戦い)(関ヶ原の戦い(秀秋への調略))
    祟り説を載せる『関原軍記大成』は正徳3年(1713年)成立の後世の編纂物である。
    「ただし、その史料は正徳3年(1713年)成立の『関原軍記大成』に収録されている書状で原本は確認されておらず、また文体に不審な点があることから偽文書の可能性がある。」
  4. 小早川秀秋 - Wikipedia(人物・評価・逸話)(人物・評価・逸話)
    近衛信尹の追悼文とされる話(少年期から飲み明かし高台院を悩ませた)は、木下家古写『系図』を典拠として記されており、追悼文自体の原文は示されていない。
    「秀秋の死後、彼と親交の深かった近衛信尹が記した追悼文によると、少年時代は蹴鞠や舞など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど優れた少年であったが、やがて酒の味を覚えると友人達と飲み明かす日々を送るようになり、秀秋の保護者的立場にあった高台院(北政所)を悩ませるようになったという。このため、秀秋は肝硬変を患っていたとの説もある。」
  5. 大谷吉継 - Wikipedia(逸話(吉継の祟り))
    吉継の呪詛と、その祟りで秀秋が2年後に狂乱死したという話は「噂」として伝わる伝承である。
    「吉継は自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん(三年の間に必ずや祟ってやる)」と言って切腹したが、この祟りによって、秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に狂乱して死亡に至ったという噂がある。」
  6. 小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?(読売新聞 yomiDr. 2016年6月27日/ウェブアーカイブ)(本文3〜4段落目)
    アルコール性肝硬変・肝性脳症説は脳神経外科医の若林利光氏が『医学天正記』から立てた推定で、戦国史研究者の小和田哲男氏は寝返りの遅れの通説は別だと述べている。
    「若林さんは、安土桃山時代から江戸時代初めに活躍し、秀秋も診た医師・曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の診療録「医学天正記」の記述に注目。秀秋について「酒疸一身黄 心下堅満而痛 不飲食渇甚」(大量の飲酒による黄だん、みぞおち付近の内臓が硬く痛みがあり、飲食できずのどの渇きが激しい)の記述から、肝硬変と考えられるという。」
  7. 医学天正記とは - コトバンク(改訂新版 世界大百科事典)(改訂新版 世界大百科事典)
    『医学天正記』は曲直瀬玄朔自身が1576〜1606年の診療記録を整理し1607年に成立させた臨床記録で、患者の実名・年齢・症状・処方が記される。
    「1576年(天正4)から1606年(慶長11)にわたるみずからの診療記録を整理したもの。1607年成立。2巻。〈中風〉より〈麻疹〉に至る60の病名に分類され,患者の実名・年齢・症状,診療の日付と処方例,経過などが日記風に記載されている。」
  8. 曲直瀬玄朔とは - コトバンク(日本人名大辞典)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
    曲直瀬玄朔は正親町天皇・後陽成天皇・豊臣秀次らを診療した当代一流の医師である。
    「1549-1632 織豊-江戸時代前期の医師。天文(てんぶん)18年生まれ。伯父曲直瀬正盛(しょうせい)(初代道三)にまなび,2代道三をつぐ。天正(てんしょう)14年法印。正親町(おおぎまち)天皇,後陽成(ごようぜい)天皇,豊臣秀次を診療。」
  9. 備前軍記とは - コトバンク(日本歴史地名大系)(日本歴史地名大系)
    「狂気の末に横死した」と記す『備前軍記』は土肥経平が著した近世の編纂物で、安永三年の写本が伝わる。
    「土肥経平著成立 安永三年写本 池田家文庫ほか解説 嘉吉元年の備前国守護赤松氏滅亡から慶長八年の池田氏入封に至る約一六〇年間を対象に、備前国内で起こった戦乱、および赤松・山名・浦上・松田・宇喜多各氏などの興亡を年月を追って記述する。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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