〈宇喜多秀家〉宇喜多騒動の襲撃標的は秀家本人だった
騒動を伝える同時代史料は『鹿苑日録』慶長5年正月8日条のみ。通説は側近・中村次郎兵衛への襲撃未遂とするが、石畑匡基氏(2014)は豪姫が騒動直後に祈祷を依頼した記録(『義演准后日記』『北野社家日記』)から「真の標的は秀家本人だった」可能性を指摘する。調停は失敗し、家康の裁断で戸川・岡・花房ら重臣が退去。関ヶ原を目前に宇喜多家は大きく衰退した。
騒動を伝える同時代史料は『鹿苑日録』慶長5年正月8日条のみ。通説は側近・中村次郎兵衛への襲撃未遂とするが、石畑匡基氏(2014)は豪姫が騒動直後に祈祷を依頼した記録(『義演准后日記』『北野社家日記』)から「真の標的は秀家本人だった」可能性を指摘する。調停は失敗し、家康の裁断で戸川・岡・花房ら重臣が退去。関ヶ原を目前に宇喜多家は大きく衰退した。