〈斎藤義龍〉身長六尺五寸(約197cm)の巨漢だった
出典は「美濃国諸家系譜」。母(稲葉氏)も六尺の長身だったと『翁草』が説明を加える。系譜類の記述で確証はないが、常在寺蔵の肖像画の堂々たる体躯と響き合い、「信長の前に立ちはだかる美濃の巨漢」像の源泉となった。
検証リサーチ
「〈斎藤義龍〉身長六尺五寸(約197cm)の巨漢だった」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
同時代史料になく、初出は江戸後期の『翁草』と写本系譜「美濃国諸家系譜」。没後220年以上あとの記述で、伝説寄りに直すのが妥当です。
くわしい根拠
結論
「身長六尺五寸(約197cm)の巨漢」という話は、同時代の史料には出てきません。いま確かめられるいちばん古い記述は、江戸時代後期の随筆『翁草(おきなぐさ)』と、写本の系譜集「美濃国諸家系譜」です[3][6][7]。義龍が亡くなった永禄4年(1561年)から220年以上あとの記述で、実際に身長を測った記録ではありません。区分は「諸説あり」より、**「伝説(後世の編纂物だけが伝える話)」**に近い扱いが正確です。ただし正面から否定した研究も見当たらないので、「作り話だ」と断定もできません。
この話が最初に出てくる史料
義龍と同じ時代を生きた太田牛一の『信長公記』は、道三と義龍が戦った長良川の戦い(弘治2年=1556年)を細かく書いています。しかし義龍の体つきには一言も触れません[2]。触れるのは、道三が「新九郎(義龍)は耄者(もうしゃ=おいぼれ・愚か者)」と侮っていたという評価だけです[1]。
いま原文が読める最古の記述は『翁草』です。京都町奉行所の与力だった神沢杜口(かんざわとこう)が寛政3年(1791年)にまとめた随筆で、抜き書きの5巻本は天明4年(1784年)に刊行されました[6][8]。その「齋藤道三息義龍の才を譽むる事」の章に、道三の妻(稲葉伊予守=稲葉良通の妹)は「背の高きこと六尺ばかり」、その腹に生まれた義龍は「又其長六尺五寸」とあり、さらに「膝を屈して坐せる時、膝の高さ一尺貳寸の扇を立るに、手一束足らず」と続きます。
ここが図鑑の記述とずれます。図鑑は「出典は『美濃国諸家系譜』。母も六尺だったと『翁草』が説明を加える」と書きますが、六尺五寸という数字そのものを『翁草』が書いています。「美濃国諸家系譜」のほうは東京大学史料編纂所が所蔵する写本の系譜集で、成立年ははっきりせず、近年になって翻刻されたものです[7]。
異説や否定説
第一に、主要な事典に身長の話は載りません。『日本大百科全書』の義龍の項は、家督相続・任官・別伝の乱・病死までを書きますが体格には触れません[5]。『精選版 日本国語大辞典』『ブリタニカ国際大百科事典』も同じです。研究のうえでは相手にされていない、ということです。
第二に、美濃の主な地誌・軍記に出てきません。『美濃国諸旧記』『新撰美濃志』『美濃明細記』を全文で探しても、義龍の身長を書いた箇所は見つかりませんでした(確認方法は method_note に記載)。話は『翁草』と系譜類の系統に限られます。
第三に、数字の換算に幅があります。明治24年の度量衡法は一尺を「三十三分ノ十」(=約30.3cm)と定めており[9]、これで計算すると六尺五寸は196.97cm、つまり約197cmです。一方でウィキペディアは「約1m95cm」と書いています[3]。どちらも同じ数字の丸め方の違いで、幅を持たせた言い方のほうが安全です。
後世にどう語られたか
『翁草』の義龍の章は、『信長公記』を下敷きにした「読み物」として読めます。道三を討ち取った人物を、『信長公記』は「長井忠左衛門」「小真木源太」と書きますが[2]、『翁草』は「永井忠右衛門(杉先)」「小牧源太」とします。『信長公記』が「新九郎は耄者と計心得て」と書いた一行[1]も、『翁草』では「常は蠢愚(しゅんぐ)なるごとくにて、しかも穎悟明朗なり」——愚か者のふりをした切れ者——という筋書きに育っています。『翁草』は「他書をそのまま写した部分が多い」と評される本でもあります[6]。身長も、この語り直しの過程で足された飾りの一つと見るのが自然です。
肖像画も注意が必要です。義龍の菩提寺・常在寺(岐阜市)にある国指定重要文化財の肖像画は、子の龍興が寄進したもので「肥満で下ぶくれの魁偉な容姿」と説明されます[4]。太っている様子は描けても、座像から身長はわかりません。「堂々たる体躯と響き合う」という言い方は、絵を根拠にしすぎです。
読者が次に抱く疑問
Q. 戦国時代に197cmはありえるの? ありえなくはありませんが、この数字は実測ではなく200年以上あとの書き物です。近世の随筆で「六尺」は「とても大きい」を表す決まり文句でもあり、数値としての信頼度は低いと考えるべきです[6]。
Q. 遺骨や甲冑で確かめられないの? 義龍の遺骸や、身長を推定できる伝来の甲冑は確認できませんでした。裏づける物証は今のところありません。
Q. 母が六尺というのは本当? これも『翁草』の記述です。なお母を誰とするかにも異説があり、事典は土岐頼芸の愛妾・三芳野(深芳野)の子とする話を「俗説」と呼びます[5]。巨漢説は「母は稲葉良通の妹」という系統の話とセットになっています[3]。
図鑑の記述への提案
- 区分を「諸説あり」から**「伝説」**へ。少なくとも本文冒頭に「同時代史料には見えない」と明記する[2][5]。
- 「出典は『美濃国諸家系譜』」を、**「『翁草』(寛政3年=1791年成立、抄出本は天明4年=1784年刊)と「美濃国諸家系譜」の二つの近世の編纂物に見える」**へ改める。『翁草』は説明を足しただけでなく、六尺五寸の数字を書いている[6][8]。
- 「約197cm」は**「約195〜197cm(一尺=約30.3cmで換算)」**と幅を持たせる[9]。
- 「常在寺蔵の肖像画の堂々たる体躯と響き合い」は、**「肖像画は『肥満で下ぶくれ』と評される座像で、身長の裏づけにはならない」**と補う[4]。
- 義龍没年(永禄4年=1561年)と初出との約220年の開きを一行入れると、読者が史料の遠さを自分で判断できる。
出典
- 信長公記 首巻「土岐頼芸公之事」(ウィキソース)(首巻(廿九)土岐頼芸公之事)同時代史料『信長公記』は道三が義龍を「耄者」と侮ったと記すだけで、義龍の体格には触れていない。
「道三は智慧の鏡も曇り新九郎は耄者と計心得て弟二人を利口の者哉と崇敬して三男春平次を一色右兵衛大輔になし乍居官を進められケ様に候間第共勝に乗て奢蔑如に持扱候新九郎外見無念に存知」
- 信長公記 首巻「山城道三討死之事」(ウィキソース)(首巻(三十)山城道三討死之事)『信長公記』は長良川の戦いを合戦の経過まで詳述するが、義龍の身長や体格の描写は一切ない。
「四月廿日辰剋成亥へ向て新九郎義龍人数を出し候道三も鶴山をおり下り奈加良川端迄人数を被出候一番合戦に竹腰道塵六百計真丸成て中の渡りを打越山城道三の幡元へ切かゝり散々に入みたれ相戦終に竹腰道塵合戦に切負山城道三御腰を討とり床木に腰を懸ほろをゆすり満足候処二番鑓に新九郎義龍多人数瞳と川を越互に人数立備候」
- 斎藤義龍(ウィキペディア日本語版)(「実父土岐頼芸説」節末)六尺五寸の話は「美濃国諸家系譜」と『翁草』という近世の編纂物に由来し、母を稲葉良通の妹とする系統の伝えとセットになっている。
「実際の義龍の母は、『翁草』に見える稲葉良通の妹とみるのが妥当である。「美濃国諸家系譜」では義龍を身長6尺5寸(約1m95cm)の大男としており、『翁草』は稲葉良通の妹が容姿に優れながらも身長6尺(約1m80cm)もある女性だったため、その息子義龍も巨漢だったと説明している。」
- 斎藤義龍(ウィキペディア日本語版)(「菩提寺」節)常在寺の重要文化財の肖像画は「肥満で下ぶくれ」と説明されており、身長ではなく肥満した容貌が特徴とされている。
「生前に、岐阜市の常在寺を菩提寺と制定している。この寺には国の重要文化財に指定されている斎藤義龍肖像画が所蔵されている。この肖像画は、その子の龍興の寄進によるもので、肥満で下ぶくれの魁偉な容姿をしており、父の道三とはあまり似ていない。」
- 斎藤義龍とは(コトバンク/日本大百科全書ニッポニカ、谷口研語執筆)(日本大百科全書(ニッポニカ)「斎藤義龍」)標準的な事典の義龍の解説には身長・体格の記述はなく、土岐頼芸の子とする話は「俗説」と位置づけられている。
「戦国大名。道三(どうさん)の子。俗説では土岐頼芸(ときよりのり)の愛妾(あいしょう)三芳野(みよしの)が、頼芸の種を宿してのち道三に嫁して生んだ子で、後の道三・義龍の不和はこれに起因すると伝える。初め新九郎利尚(としひさ)、のち范可(はんか)と号す。」
- 翁草とは(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ほか)(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「翁草」)『翁草』は神沢杜口による寛政3年(1791年)成立の随筆で、天明4年(1784年)刊の抄出5巻本があり、他書の丸写しが多い書物である。
「江戸時代後期の随筆。神沢杜口 (貞幹) 著。 200巻。巻一に安永5 (1776) 年の序がある。寛政3 (91) 年成立。抄出して5巻とした天明4 (84) 年刊本と,異本と称される写本 (国会図書館本) がある。他書をそのまま写した部分が多いが」
- 美濃国諸家系譜 : 東京大学史料編纂所蔵(NDLサーチ 書誌)(書誌情報欄)「美濃国諸家系譜」は東京大学史料編纂所が所蔵する写本の系譜集で、2000年代に田中豊により翻刻・分冊刊行された近世の編纂物である。
「資料種別図書タイトル美濃国諸家系譜 : 東京大学史料編纂所蔵タイトルよみミノノクニ ショカ ケイフ : トウキョウ ダイガク シリョウ ヘンサンショ ゾウ巻次・部編番号各務外著者・編者田中豊/[編]」
- 名家漫筆集(続帝国文庫 第50編、博文館1903年)(NDLサーチ 書誌)(資料詳細・内容細目(永続的識別子 info:ndljp/pid/1882660))私が本文を確認した『翁草』は、抄出5巻本を収める『名家漫筆集』(続帝国文庫第50編)所収のもので、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている。
「内容細目:雲萍雑志 巻之1-4(柳里恭稿) 蜘蛛の糸巻[正],追加(岩瀬京山) 瓦礫雑考 巻之1,2(喜多村節信) 仮名世説 上,下(杏花園蜀山編 文寳堂散木補) 愚雑爼 巻之1-2(田宮仲宣) 翁草 巻之1-5(神沢貞翰)」
- 度量衡法(明治24年法律第3号)(ウィキソース)(第二條)一尺は10/33メートル(約30.3cm)と法定されており、六尺五寸は約196.97cm(約197cm)に相当する。
「第二條 度量衡ノ原器ハ白金、「イリヂウム」合金製ノ棒及分銅トス其ノ棒ノ面ニ記シタル標線間ノ攝氏〇、一五度ニ於ケル長サ三十三分ノ十ヲ尺トシ分銅ノ質量四分ノ十五ヲ貫トス」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。