〈斎藤義龍〉「范可」— 父殺しを悔いて改名した
『信長公記』は道三を討った後に「やむを得ず父を殺した中国の范可」に自分を重ねて改名したとするが、「美江寺文書」により道三敗死前の弘治元年(1555)12月にすでに「范可」名を使用していたことが確定(桑田忠親氏の指摘)。名乗り自体は史実だが、「悔いて改名した」という経緯譚は誤り。しかも「范可」なる故事は中国側史料で確認されていない。父と戦う覚悟の表明とみられる。
検証リサーチ
「〈斎藤義龍〉「范可」— 父殺しを悔いて改名した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「范可」の名乗り自体は本人の文書で確認できる史実。だが「父殺しを悔いて改名」の由来は『信長公記』だけの説明で、道三敗死の4か月前の范可署名文書により否定されている。
くわしい根拠
結論
「父殺しを悔いて『范可(はんか)』と改名した」という話は、由来の部分が史実ではない。「范可」という名乗り自体は本人が出した文書に残る史実だが、「悔いて名を変えた」という筋書きは『信長公記』だけが語る後づけの説明とみられる[1][4][6]。図鑑の区分「諸説あり」は妥当だが、由来譚については「否定説が有力」と一歩踏み込んでよい。
この話が最初に出てくる史料
初出は太田牛一『信長公記』首巻。信長のそばに仕えた牛一が自分の手控えをもとに慶長3年(1598)ごろまでに書いたもので、史料的価値は高いが、写本ごとに字句の異同(ちがい)がある[8]。長良川の戦い(弘治2年=1556年4月)の記事に続けて、こうある。
合戦に討勝て頸実検の所へ道三か頸持来此時身より出せる罪成と得道をこそしたりけり是より後新九郎はんかと名乗古事在昔唐にはんかと云者親の頭を切[1]
ここで注意したい点が三つある。
- 底本(町田本)では漢字の「范可」ではなく、仮名で「はんか」と書かれている[1]。別系統の写本では「飯賀」とも書かれる[6]。
- 「やむを得ず」に当たる言葉は原文にない。「昔、唐(中国)に『はんか』という者がいて、親の頭を切った。それが孝とされた」とだけ記す[1]。
- 牛一はこれを免罪(ゆるされた)の話として書いていない。すぐ次の節の冒頭で「今の新九郎義龍は不孝重罪恥辱と成也」と断じている[2]。
つまり『信長公記』でも「改名すれば許される」という話ではない。「出家(得道)して名を変えたが、それでも不孝の重罪だ」という筋である[1][2]。
なお同書は、道三が義龍を「耄者(おいぼれ)」とみて弟二人をかわいがったことを対立の原因とし、義龍が「十月十三日」から仮病を使い「箱月(霜月=11月)廿二日」に弟二人を殺したと記す[3]。
異説や否定説
決め手は同時代の古文書である。義龍は弘治元年(1555)12月に「范可」の名で美江寺(みえじ)へ禁制(軍勢の乱暴を禁じる文書)を出している[4]。禁制は領主として出すものだから、この時点で義龍が名を「范可」としていたことは動かない。弟二人を殺したのが同年の霜月(11月)廿二日[3]、道三が討たれるのが翌弘治2年4月だから、父を討つ前、父と決裂した直後からこの名を使っていたことになる[3][4]。この一点で「首実検のあと悔いて改名した」という牛一の説明は成り立たない[4]。ウィキペディア「長良川の戦い」も、勝俣鎮夫「美濃斎藤氏の盛衰」(『岐阜県史』1980年)を典拠に「これは作者太田牛一の創作である」と明記している[6]。
さらに、「范可」という孝子の故事そのものが中国側で確認できない[5]。漢籍の全文データベース「中國哲學書電子化計劃」で漢代以後の文献を「范可」で検索しても該当は3件だけで、人名としては『太平広記』の道士「范可保」が出るのみ、父を斬って孝とされた人物の話は出てこない[9]。故事が実在しないなら、「その故事にちなんで改名した」という説明も土台を失う。
後世にどう語られたか
『信長公記』は後に小瀬甫庵が潤色した『信長記』のもとにもなり、話は広く読まれる形へ変わっていった[8]。さらに近世の地誌・軍記は、義龍の実父は道三ではなく土岐頼芸(ときよりのり)だという説を広めた。辞典類も「俗説では…」と断ったうえで紹介している[7]。父殺しの動機を説明したい後世の書き手が、話を足していった流れが見える。桑田忠親は「范可」を実父頼芸の仇討ち(=実父への孝)と読んだが、この読みは頼芸実父説を前提にしており、その前提自体が近世の作り話とされている点に注意がいる[7]。
読者が次に抱く疑問
Q. では義龍はなぜ「范可」と名乗ったのか。 父と戦う覚悟・大義名分の表明とみる説が有力[4]。ただし故事の実在が確認できない以上、名の由来そのものは未解決である[5][9]。
Q. 「范可」はずっと使った名前なのか。 いいえ。義龍は「初め新九郎利尚、のち范可と号す」とされ[7]、のちに足利一門の一色氏を称して一色義龍と名乗った。「范可」は短い期間の名乗りである[7]。
Q. 『信長公記』は信用できない史料なのか。 そうではない。全体としては簡潔で史料的価値が高いと評価される[8]。ただし首巻は牛一が直接見ていない伝聞部分が多く、写本間の異同もあるので[8]、記事ごとに古文書と突き合わせて確かめる必要がある。
図鑑の記述への提案
- 区分は「諸説あり」のままでよいが、名乗り=史実/由来譚=否定 の切り分けを本文の冒頭で明示したい[4][6]。
- 「悔いて改名した」は、原文では「身より出せる罪」として出家し以後「はんか」と名乗った、という書き方であり、直後に「不孝重罪恥辱」と断じられている。この点を補うと正確になる[1][2]。
- 「桑田忠親氏の指摘」は、勝俣鎮夫氏(『岐阜県史』1980年)の指摘としても知られる[6]。両者を併記するほうが安全。
- 表記の揺れ(「范可」「はんか」「飯賀」)を一言添えると、写本による違いが伝わる[1][6]。
- 「やむを得ず父を殺した中国の范可」の「やむを得ず」は原文にない語。『信長公記』の文言に沿うなら「親の頭を切って孝とされた者」と書くのが忠実[1]。
出典
- 信長公記 - Wikisource(町田本『我自刊我書』本)(首(三十)山城道三討死之事)『信長公記』首巻は、長良川の戦いで道三の首実検をした義龍が出家し、以後「はんか」と名乗ったとし、唐の故事を挙げる(底本では漢字「范可」ではなく仮名表記)。
「合戦に討勝て頸実検の所へ道三か頸持来此時身より出せる罪成と得道をこそしたりけり是より後新九郎はんかと名乗古事在昔唐にはんかと云者親の頭を切」
- 信長公記 - Wikisource(町田本『我自刊我書』本)(首(卅一)信長太良より御帰陣之事 冒頭)太田牛一は改名を免罪の話として書いておらず、直後の節冒頭で義龍を「不孝重罪」の恥辱と断じている。
「今の新九郎義龍は不孝重罪恥辱と成也」
- 信長公記 - Wikisource(町田本『我自刊我書』本)(首(廿九)土岐頼芸公之事)『信長公記』は道三と義龍の対立の原因を道三の弟偏愛に求め、義龍が十月十三日から仮病を使い箱月(霜月)廿二日に弟二人を殺したと記す。
「道三は智慧の鏡も曇り新九郎は耄者と計心得て弟二人を利口の者哉と崇敬して三男春平次を一色右兵衛大輔になし乍居官を進められケ様に候間第共勝に乗て奢蔑如に持扱候新九郎外見無念に存知 十月十三日より搆作病奥へ引入平臥候へキ箱月廿二日山城道三山下の私宅へ下られ候」
- 斎藤義龍 - Wikipedia(人物・逸話 >「范可」節)「美江寺文書」により、義龍は道三を討つ前の弘治元年(1555)12月にすでに「范可」名で禁制を出しており、道三と戦う決意をした時点で范可を名乗っていたことが確認される。
「また、義龍が「范可」を名乗るのは、実際には道三を殺す以前からである。「美江寺文書」によれば弘治元年(1555年)12月、「范可」名で同寺に禁制を出している」
- 斎藤義龍 - Wikipedia(人物・逸話 >「范可」節)『信長公記』が挙げる「范可」の故事は、その実在自体が確認されていない(木下聡『斎藤氏四代』による)。
「同書では范可とは昔の中国で父の頸を切って孝とされた人物であり、義龍は自分の境遇と重ねこの名前を使うようになったとする。ただし、「范可」にまつわる故事の実在は確認されていない」
- 長良川の戦い - Wikipedia(戦後 節(出典[2]=勝俣鎮夫「美濃斎藤氏の盛衰」『岐阜県史通史編』1980年))名乗りの表記は写本により「范可/飯賀」と揺れ、美江寺への范可署名の禁制を根拠に、勝俣鎮夫『岐阜県史』を典拠として由来譚は太田牛一の創作と説明されている。
「このとき義龍は「我が身の不徳より出た罪」と出家し、これ以後「はんか(范可/飯賀)」と名乗った。これは唐の故事で、止むを得ない事情により父親を殺した者の名とされてきた(『信長公記』)。しかしながら、義龍は弘治元年12月に「范可」と署名した禁制を美江寺に与えている。道三と戦う前から范可と称しているのであるから、これは作者太田牛一の創作である」
- 斎藤義龍とは - コトバンク(日本大百科全書〈ニッポニカ〉)(日本大百科全書(ニッポニカ)「斎藤義龍」谷口研語)事典は土岐頼芸実父説を「俗説」として扱い、義龍が初め新九郎利尚、のちに范可と号したと記す。
「俗説では土岐頼芸(ときよりのり)の愛妾(あいしょう)三芳野(みよしの)が、頼芸の種を宿してのち道三に嫁して生んだ子で、後の道三・義龍の不和はこれに起因すると伝える。初め新九郎利尚(としひさ)、のち范可(はんか)と号す。」
- 信長公記とは - コトバンク(日本大百科全書〈ニッポニカ〉ほか)(日本大百科全書(ニッポニカ)「信長公記」渡辺江美子)『信長公記』は太田牛一が手控えをもとに慶長3年(1598)ごろまでに著したもので、諸本の間に増補・削除や人名の異同があり、後世これを潤色した小瀬甫庵『信長記』が別に作られた。
「信長に近侍した作者が、自身の手控えを基に1598年(慶長3)ごろまでに著述。さらに自ら改訂を加えて数種類の本を作成したらしく、諸本を比較すると記事の増補・削除や人名部分の異同が認められる。本文は平易な漢文と仮名交じり文で記され、事実を客観的かつ簡潔に述べており、史料的価値は高い。牛一自筆の池田文庫本および建勲(けんくん)神社本は国の重要文化財に指定。小瀬甫庵(おぜほあん)作『信長記』は本書を基に潤色を加えたものである。」
- Post-Han「范可」全文検索結果 - 中國哲學書電子化計劃(Chinese Text Project)(検索結果『太平廣記』雷三・甘露寺(結果は Total 3 paragraphs))漢籍全文データベースで漢代以後の文献を「范可」で検索しても該当は3件のみで、人名としては『太平広記』の道士「范可保」が現れるだけであり、父を斬って孝とされた人物の記事は見当たらない。
「道士范可保,夏月獨遊浙西甘露寺。出殿後門,將登北軒。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。