〈斎藤義龍〉上洛した信長に刺客を放った

永禄2年(1559)の信長上洛時、鉄砲を装備した刺客を送り暗殺を謀ったが、丹羽兵蔵らに見破られ阻止されたと『信長公記』が記す。同時代人の記録だが細部の裏付けは取れず、要検討とされる。正面決戦を避け謀略戦で信長と渡り合った義龍の戦い方を象徴する逸話ではある。

検証リサーチ

「〈斎藤義龍〉上洛した信長に刺客を放った」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 86 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

『信長公記』首巻だけが伝える伝聞。原文に義龍の名も年月日もなく、鉄砲も条件つきの相談として出るだけ。区分「諸説あり」は妥当だが本文は要修正。

くわしい根拠

結論

この話は「史実」とも「作り話」とも言い切れない。正確に言うと「たった一つの史料にしか出てこない、しかも伝聞(人づての話)の記事」である。出どころは『信長公記』首巻の「丹羽兵蔵御忠節之事」だけ [1]。しかもその原文には「斎藤義龍」という名前も、年月日も書かれていない。書いてあるのは「美濃国から大事な使いを受けて、上総介(信長)の討手(うちて=討ち取る役)として上ってきた」という、宿で少年から聞き出した話である [1]。鉄砲も「条件がそろえば撃てる」という相談の言葉として出てくるだけで、撃ったとも、持っていたとも書かれていない [1]。図鑑の区分「諸説あり」は妥当だが、本文はもう少し慎重にしたい。

この話が最初に出てくる史料

初出は『信長公記』首巻(廿六)「丹羽兵蔵御忠節之事」[1]。著者の太田牛一は信長に仕えた同時代の人だが、首巻は巻一以降とは別立ての巻で、「是は信長御入洛なき以前の双紙なり(信長が京に入る前のことを書いた別冊です)」と最初に断られている [2][3]。年月日を欠く記事が多く、この話にも年が書かれていない。首巻の並び順でも、桶狭間の戦い(永禄3年)の記事のあとに置かれている [1]。しかも牛一自筆本(池田家本・建勲神社本)には首巻そのものが伝わらない [4]。『信長公記』全体も「二次史料であることには変わりがない」とされ、単独で全面的に依拠せず史料批判が必要だとされている [4]。

話の中身はこうだ。清洲の那古野弥五郎の家来・丹羽兵蔵が、志那の渡し(琵琶湖の渡船場)で怪しい一行と同船する。宿の「こざかしきわらんべ(利発な少年)」から事情を聞き出し、信長の宿(室町通上京うら辻)を訪ねて金森(長近)と蜂屋(頼隆)に通報する [1]。翌朝、顔見知りの金森が相手の宿に乗り込んで「もうばれている」と告げ、さらに信長本人が小川表で声をかけて恥をかかせて終わる [1]。捕縛も戦闘も、暗殺の実行もない。なお挙がる名前は小池吉内ら5人だが、本文は後で「六人の衆」と書いており、人数が合わない [1]。

異説や否定説

正面からこれを否定した史料は見つからない。ただし弱点は多い。

第一に、義龍の名がない。原文は差し向けた側を「美濃国」とだけ書く [1]。永禄2年は、2月に信長、4月に斎藤義龍、5月に長尾景虎(上杉謙信)が相次いで上洛した年で、いずれも将軍足利義輝から自分の領国支配を公認してもらうのが目的だったと考えられている [5]。義龍自身も前年に治部大輔に任官し、この年に御相伴衆に列し、8月には一色氏の家督を幕府に認められている [6][7]。美濃の使者が京都にいること自体は、まったく不自然ではない。「幕府への使者」を「討手」と読むのは、少年の話に頼った解釈にすぎない。

第二に、情報が全部伝聞である。討手だという話も、鉄砲の相談も、兵蔵が聞き出し、立ち聞きしたものとして書かれている [1]。

第三に、いまの事典・概説での扱いが軽い。『日本大百科全書』の斎藤義龍の項は、道三を討ったことも相伴衆に列したことも書くのに、信長暗殺未遂には触れない [7]。ウィキペディアの織田信長の記事でも、本文ではなく注記に落とされている [8]。

後世にどう語られたか

『信長公記』は写本でしか伝わらず、江戸時代に広く読まれたのは小瀬甫庵の『信長記』のほうだった [4]。近代以降、この話は通報を受けた側である金森長近の手柄話としても語られる。そこでは「斎藤義龍からの指示で信長を暗殺しようと」と、原文にない主語がはっきり補われている [9]。「美濃から来た誰か」が、語り直されるうちに「義龍の刺客」へ固まっていった、と見るのが自然だ。

読者が次に抱く疑問

Q. 同時代の人が書いたのに、なぜ裏づけが弱いの? → 牛一は同時代人でも、首巻は自分が見ていない昔の話を後から集めた別冊で、年月日も欠く [2][3][4]。「同時代人が書いた=一次史料」ではない。

Q. 義龍に信長を狙う動機はあった? → 道三を討って以来、義龍と信長は敵対しており、義龍が信長の兄弟と連絡した書状も残る [6]。動機は十分ある。ただし「動機がある」ことと「この事件が起きた」ことは別問題だ。

Q. 将軍のお膝元の京都で、本当に鉄砲を撃てるの? → 原文自体が「公方の御覚悟さへ参り候て(将軍の了解さえ得られれば)」と条件を付けている [1]。勝手に撃てる話ではなかった、と読むほうが自然だ。

図鑑の記述への提案

  1. 区分「諸説あり」は維持でよい。ただし「一つの史料の伝聞にしか拠らない」と一言添えたい。
  2. 「刺客を送り暗殺を謀った」→ 『信長公記』は差し向けた主体を「美濃国」としか書かず、義龍の名は出さない。「義龍が送ったとされる」に改めるのが正確 [1]。
  3. 「鉄砲を装備した刺客」→ 原文に装備の記述はない。「将軍の了解と宿の協力があれば鉄砲で狙える、と話していたと伝える」程度に弱めたい [1]。
  4. 「同時代人の記録」→ 「同時代人・太田牛一の記録だが、年月日を欠く首巻の記事で、牛一自筆本には首巻が伝わらない」と補いたい [2][3][4]。
  5. 永禄2年(1559)という年は『信長公記』には書かれていない。他の史料から復元された通説である旨を添えたい [5]。

出典

  1. 信長公記 首(廿六)丹羽兵蔵御忠節之事(ウィキソース)(首(廿六)丹羽兵蔵御忠節之事)
    この逸話の初出である『信長公記』首巻の原文は、差し向けた側を「美濃国」とのみ記し斎藤義龍の名を出さず、討手だという情報も鉄砲の相談も宿の少年からの伝聞・立ち聞きとして書く。
    「都へ罷上候処人躰と覚しき衆首〳〵五六人上下卅人計上洛候志那の渡りにて彼衆乗候舟に同船仕候何くの者と尋られ三川の国の者にて候尾張の国を罷通候とて有随(ウズイ)成様躰にて候間機遣仕候て罷越候と申候へは上総かいそうも程有間敷候と申候如何にも人を忍ふ躰相見候詞のあや敷様躰不審に存知心を付彼等か泊〳〵あたりに宿を借こざかしきわらんべをちか付京にして湯入の衆にて候か誰にて候そと尋候へは三川の国の者にて候と申に付て心をゆるしわらんべ申様に湯入にてもなくて美濃国より大事の御使を読取上総介殿の討手に上候と申候人数は    小池吉内 平(ヘイ)​(ノ)美作 近松田面 宮川八右衛門 野木次左衛門 是等也夜るは伴の衆に粉れ近〳〵と引付様子を聞に公方の御覚悟さへ参り候て其宿の者に被仰付候はゝ鉄炮にて打候はんには何の子細有間敷と申候」
  2. 信長公記 目録(ウィキソース)(信長公記目録・首巻冒頭)
    『信長公記』首巻は「信長御入洛無以前の双紙」と明記された別立ての巻である。
    「信長公記首(是は信長御入洛無以前の双紙なり)(一)尾張国かみ下わかち之事(二)あづき坂合戦之事(三)吉法師殿御元服之事」
  3. 信長公記とは(コトバンク/日本歴史地名大系ほか)(日本歴史地名大系「信長公記」)
    首巻は「是は信長御入洛なき以前の双紙なり」と断って上洛以前の尾張・美濃の情勢を記す部分で、編年で書かれた巻一以下とは性格が異なる。
    「首巻では「是は信長御入洛なき以前の双紙なり」として、信長の吉法師時代より筆を起こし、尾張・美濃の情勢などを記す。巻一以下では、永禄一一年から天正一〇年までの一五年間の事跡を一年一冊にまとめている」
  4. 信長公記 - Wikipedia(「内容」節)
    『信長公記』は良質な編纂物だが二次史料であり、単独で全面的に依拠せず史料批判が必要とされる(同記事は牛一自筆本の池田家本・建勲神社本に首巻がないこと、江戸期に広まったのは甫庵『信長記』であることも記す)。
    「良質な編纂物として史料的な価値も高いが、二次史料であることには変わりがない。そのため『信長公記』を研究に使う際には、この文献(または特定の写本)を単独で使い全面的に依拠するのではなく、別の一次資料や二次資料も確認したり、別の写本(または原本)と内容の突き合わせを行ったりするなど、適切な史料批判をすることが大切とされている」
  5. 足利義輝 - Wikipedia(「諸大名との関係」節)
    永禄2年は2月に織田信長、4月に斎藤義龍、5月に長尾景虎が相次いで上洛した年で、いずれも将軍義輝から領国支配の公認を得ることが目的だったと考えられている。
    「永禄2年2月、尾張の織田信長が上洛したのをはじめ 、4月に美濃の斎藤義龍が、5月には越後の長尾景虎(上杉謙信)が相次いで上洛し、義輝に謁見した。景虎はこのとき、足利一族や管領に準じる待遇を受けたばかりか、関東管領・上杉憲政の処遇を一任され、信濃の諸将への指揮権も認められた。義龍は将軍である義輝によって自身が美濃支配を公認されたことを示すため、信長もまた同様に義輝から公認を受けて尾張統一を図るため、それぞれ上洛したと考えられている」
  6. 斎藤義龍 - Wikipedia(「生涯」節)
    斎藤義龍は永禄2年4月に上洛して義輝に謁見し御相伴衆となり、同年8月には一色氏の家督を幕府に認められた(同記事は義龍が信長の兄弟と連絡した書状の存在も記す)。
    「永禄2年(1559年)4月に上洛し、足利義輝に謁見、御相伴衆に任じられた(『厳助往年記』)。 同年8月、一色氏家督の地位を幕府から認められ、これより一色義龍と称した」
  7. 斎藤義龍とは(コトバンク/日本大百科全書・谷口研語執筆)(日本大百科全書(ニッポニカ)「斎藤義龍」)
    事典の斎藤義龍の項は道三殺害・治部大輔任官・将軍相伴衆列座・信長との抗争を記すが、信長暗殺未遂の逸話には触れていない。
    「1554年(天文23)道三より家督を譲られたが、56年(弘治2)4月長良(ながら)川畔に道三を討つ。58年(永禄1)治部大輔(じぶだいぶ)に任官、翌59年将軍相伴衆(しょうばんしゅう)に列し、以後たびたび織田信長と争う」
  8. 織田信長 - Wikipedia(「注釈」(永禄2年上洛の注))
    現在の概説では、この暗殺未遂話は本文ではなく『信長公記』の伝えるものとして注記に置かれている。
    「『信長公記』によれば斎藤義龍がこの時、信長を謀殺せんと京へ刺客を放つも、織田方の丹羽兵蔵がこれを看破したという事件があったという」
  9. 金森長近 - Wikipedia(「人物・逸話」節)
    後世この話は金森長近の手柄話として語られ、原文にない「斎藤義龍からの指示で」という主語が補われて紹介されている。
    「永禄2年(1559年)に信長が初めて上洛した際に長近は80名の随行者の1人であった。この時、斎藤義龍からの指示で信長を暗殺しようと美濃衆の刺客らが後をつけてきたが、丹羽兵蔵という尾張からの使者が道中これを看破し、蜂屋頼隆と長近に通報した。美濃衆の刺客達と面識があった長近は挨拶と称して彼等の宿所を訪れ、事が露見している旨を宣告したという」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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