〈斎藤義龍〉道三は義龍を「無能」と見誤り、美濃を信長に譲った

「耄れ者」と侮った話も長良川で采配に感嘆した話も『信長公記』首巻の物語的叙述で、一次史料の裏付けはない。「美濃譲り状」(初出『江濃記』等、写しが現存)は真偽に議論があり、信長側が美濃侵攻の正当化に利用・作成した可能性も指摘される。そもそも義龍は統治・外交・軍事すべてで成果を挙げており、「無能説」自体が道三英雄譚の裏返しとみられている。

検証リサーチ

「〈斎藤義龍〉道三は義龍を「無能」と見誤り、美濃を信長に譲った」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 85 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

諸説あり。「耄れ者」侮りは『信長公記』首巻のみ、采配感嘆は同著者の別書『大かうさまくんきのうち』。譲り状は写しのみで偽文書説あり。

くわしい根拠

結論

図鑑の区分「諸説あり」は妥当です。ただし中身は三つに分けて考える必要があります。

第一に、道三が義龍を「耄れ者(もうれもの。頭がはたらかない者)」と侮ったという話は、『信長公記』首巻にしか出てきません。道三と義龍の対立を伝える同時代史料(その時代に書かれた書状や日記)は見つかっていません[4]。

第二に、長良川で道三が義龍の采配(軍の指揮ぶり)に感嘆したという話は、『信長公記』ではなく、同じ太田牛一が書いた別の本『大かうさまくんきのうち』に出てきます[6]。『信長公記』首巻の長良川合戦の記事は道三の討死で終わり、采配をほめる場面はありません[3]。

第三に、「美濃譲り状」は写ししか伝わらず、偽文書とする説があります[5]。一方で義龍は実際には成果を挙げた大名でした[9]。つまり「道三が無能と見誤った」という筋書きは、後世に作られた物語である可能性が高い、というのが現在の見方です。

この話が最初に出てくる史料

初出は『信長公記』首巻です。首巻は目録に「信長公記首(是は信長御入洛無以前の双紙なり)」とあるとおり、信長が京へ入る前の時期を扱う物語風の巻です[1]。その第廿九「土岐頼芸公之事」に、次の一節があります。

道三は智慧の鏡も曇り新九郎は耄者と計心得て弟二人を利口の者哉と崇敬して[1]

「道三は判断力がにぶり、新九郎(義龍)をただの耄れ者と思いこみ、弟二人を利口だとほめた」という意味です。このあとに、義龍が十月十三日から仮病を使い、十一月二十二日に弟二人を斬らせた経緯が続きます[1][4]。

「美濃を信長に譲った」という話の土台になるのが、同じ首巻第十「山城道三と信長御参会之事」、いわゆる聖徳寺の会見です。帰り道で道三はこう言ったと書かれています。

山城か子共たわけか門外に馬を可繋事案の内にて候[2]

「私の子どもたちは、あのたわけ(信長)の門の外に馬をつなぐ身になるだろう」という意味で、ここでも「息子より信長」という対比が物語の軸になっています。

異説や否定説

采配感嘆の話は出典が違います。『信長公記』首巻第三十「山城道三討死之事」は「合戦に討勝て頸実検の所へ道三か頸持来此時身より出せる罪成と得道をこそしたりけり」と、道三の首が運ばれる場面で終わります[3]。「さすが道三の子にて候」と道三が言うのは『大かうさまくんきのうち』のほうです[6]。

対立の理由も一本ではありません。江戸期の軍記『江濃記』(『群書類従』第拾四輯所収)は、道三が末子をかわいがり、三男を一色氏の跡目に、家督は二男孫四郎にと妻と語ったのを六歳の弟が兄に漏らした、という筋にします。そこでの義龍は「父ニハ不似シテ心ユウ〳〵トヲンビンナル人ナリ」(父に似ず、おっとりして穏やかな人)と描かれ、「無能」とは書かれていません(国立国会図書館デジタルコレクション『群書類従』第拾四輯 コマ76で確認)。

譲り状も写しだけです。京都の妙覚寺と大阪城天守閣に伝わり、『江濃記』にも本文が載りますが、いずれも写しとみられ、偽文書とする説があります[5]。

そして「無能説」自体が事実と合いません。義龍は永禄元年(1558年)に治部大輔に任官し、翌年には将軍の相伴衆に列し、宿老制や貫高制の採用、宗教統制策など、戦国大名らしい政策を進めています[9]。

後世にどう語られたか

道三の梟雄(きょうゆう。ずるがしこい英雄)像は、江戸寛永年間ごろ成立とみられる『美濃国諸旧記』などで形になり、近代には坂口安吾・海音寺潮五郎・司馬遼太郎らの小説で広まりました[7]。同じ流れで「義龍の実父は土岐頼芸だ」という説も近世に生まれます。しかし『信長公記』『大かうさまくんきのうち』『甫庵信長記』『武家事紀』『江濃記』など早くに成立した本には、その母とされる三芳野は出てきません[8]。「無能な義龍」も、道三英雄譚を引き立てる影として、後から太っていったとみるのが自然です。

読者が次に抱く疑問

Q. 結局、二人はなぜ戦ったのですか。 A. 正直なところ分かりません。同時代史料がないからです[4]。近世の本はそれぞれ別の理由(無能と侮った/末子偏愛/実父は頼芸)を後から付けています[4][8]。

Q. 譲り状が本物なら、信長の美濃攻めは正当だったのですか。 A. 真偽が決まっていないので、そこまでは言えません[5]。『江濃記』では、のちに西美濃三人衆が「道三遺言ノ通リニ美濃ヲトラセ奉ラン」と相談する筋になっており、譲り状は「信長が美濃を取る理由」を説明する装置として物語に組み込まれています(同 コマ77で確認)。

Q. 『大かうさまくんきのうち』とは何ですか。 A. 『信長公記』と同じ太田牛一が書いた、豊臣秀吉に関する記録です[8]。著者が同じでも別の本なので、「『信長公記』に書いてある」と言うのは不正確です。

図鑑の記述への提案

  1. 「長良川で采配に感嘆した話も『信長公記』首巻の物語的叙述」は誤りです。「采配に感嘆した話は『信長公記』ではなく、同じ太田牛一の『大かうさまくんきのうち』に見える」と直すことを提案します[3][6]。
  2. 「初出『江濃記』等」は言い切りすぎです。「『江濃記』に本文が載り、京都の妙覚寺と大阪城天守閣に写しが伝わるが、いずれも写しで偽文書説がある」とするのが安全です[5]。
  3. 「一次史料の裏付けはない」は、より正確に「対立を伝える同時代史料が確認されていない」と書けます[4]。
  4. 年月日を補うと親切です。長良川の戦いは弘治2年(1556年)4月20日[3]、義龍の病死は永禄4年(1561年)5月11日です[9]。
  5. 区分は「諸説あり」のままでよいと考えます。ただし「無能説」の部分は、根拠が後世の編纂物に限られるため「後世の物語とみられる」と一段はっきり書いてよい水準です[1][4][9]。

出典

  1. 信長公記 首巻(廿九) 土岐頼芸公之事(ウィキソース、我自刊我書本)(首(廿九)土岐頼芸公之事)
    道三が義龍を「耄れ者」と侮ったという話は『信長公記』首巻に出てくる。
    「道三は智慧の鏡も曇り新九郎は耄者と計心得て弟二人を利口の者哉と崇敬して三男春平次を一色右兵衛大輔になし乍居官を進められケ様に候間第共勝に乗て奢蔑如に持扱候新九郎外見無念に存知」
  2. 信長公記 首巻(十) 山城道三と信長御参会之事(ウィキソース、我自刊我書本)(首(十)山城道三と信長御参会之事)
    道三が「自分の子らは信長の門外に馬をつなぐ身になる」と述べたという逸話も『信長公記』首巻の記述である。
    「道三申様にされは無念成事候山城か子共たわけか門外に馬を可繋事案の内にて候と計申候自今已後道三か前にてたわけ人と云事申人無之」
  3. 信長公記 首巻(三十) 山城道三討死之事(ウィキソース、我自刊我書本)(首(三十)山城道三討死之事(同節冒頭に「四月廿日辰剋」とある))
    『信長公記』首巻の長良川合戦の記事は道三の首実検で終わり、道三が義龍の采配に感嘆する場面はない。
    「合戦に討勝て頸実検の所へ道三か頸持来此時身より出せる罪成と得道をこそしたりけり是より後新九郎はんかと名乗古事在」
  4. 斎藤道三 - Wikipedia(生涯 / 義龍との対立)
    道三と義龍の対立を伝える同時代史料は存在せず、経緯は『信長公記』の記述に依っている。
    「道三と義龍の対立を伝える同時代史料は存在しないが、『信長公記』の記述する経緯は以下のようなものである。年老いて智慧の衰えた道三は義龍を愚か者だと思い、次男・孫四郎や三男・喜平次の方が利口者と考え、喜平次に名門一色氏を継がせようとした。」
  5. 斎藤道三 - Wikipedia(美濃譲り状)(人物 / 実子・義龍と娘婿・信長)
    信長に美濃を譲るという道三の遺言書は写ししか伝わらず、偽文書とする説がある。
    「長良川の戦いで戦死する直前に道三が出したとされる、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書が、京都の妙覚寺、大阪城天守閣に存在するほか、『江濃記』にも記録されている。ただしいずれも写しとみられ、偽文書とする説もある」
  6. 斎藤道三 - Wikipedia(長良川での評価改め)(人物 / 実子・義龍と娘婿・信長)
    道三が義龍の采配に感嘆したという話の出典は『信長公記』ではなく『大かうさまくんきのうち』である。
    「道三は従来義龍を「無能」と評していたが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、「さすが道三の子にて候」とその評価を改め、後悔したという(『大かうさまくんきのうち』)」
  7. 斎藤道三 - Wikipedia(道三像の形成)(人物 / 史料に見る道三の来歴)
    下剋上の梟雄という道三像は近世の『美濃国諸旧記』などで形成され、近代の歴史小説で広まった。
    「江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾・海音寺潮五郎・司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた」
  8. 斎藤義龍 - Wikipedia(両親についての俗説)(人物・逸話 / 両親について)
    義龍の実父を土岐頼芸とする話は近世の産物で、『信長公記』『大かうさまくんきのうち』など早期の書物には母とされる三芳野が現れない。
    「しかしながら、太田牛一『信長公記』『大かうさまくんきのうち』や小瀬甫庵『甫庵信長記』、山鹿素行『武家事紀』、『江濃記』といった早くに成立した書物には三芳野の存在は記述がない」
  9. 斎藤義龍とは(日本大百科全書〈ニッポニカ〉、谷口研語執筆) - コトバンク(日本大百科全書(ニッポニカ)「斎藤義龍」)
    義龍は治部大輔任官・相伴衆列座に加え、宿老制・貫高制・宗教統制など戦国大名としての政策を進めており、「無能」評価は当たらない。
    「58年(永禄1)治部大輔(じぶだいぶ)に任官、翌59年将軍相伴衆(しょうばんしゅう)に列し、以後たびたび織田信長と争う。60年末伝燈(でんとう)寺の別伝(べつでん)に美濃(みの)禅宗寺院の寺統権を与えたことから、美濃の禅宗界を揺るがす別伝の乱が起こり、その渦中の永禄(えいろく)4年5月11日病死した。美濃斎藤氏3代では道三の斬新(ざんしん)性がいわれるが誤りであり、義龍に至り宿老(しゅくろう)制、貫高(かんだか)制の採用や宗教統制策など戦国大名としての萌芽(ほうが)的諸政策がみられる。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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