〈黒田官兵衛〉近江源氏の出で、目薬売りで財を成した
近江国黒田村に発し備前福岡を経て播磨へ、祖父が目薬「玲珠膏」で財を成した——という家伝の出典は『黒田家譜』と系譜類のみで、近江・備前時代を裏付ける一次史料はない。渡邊大門氏らは播磨土着の国人とみる。家格上昇のための系譜仮託の可能性が指摘される。
検証リサーチ
「〈黒田官兵衛〉近江源氏の出で、目薬売りで財を成した」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
諸説あり。近江源氏説の出典は『黒田家譜』(1704年完成)など近世の編纂物で、目薬の話は別の『夢幻物語』が出典。『黒田家譜』は玲珠膏に触れていない。
くわしい根拠
結論
「近江源氏の出」と「目薬売りで財を成した」は、別々の史料から来た別々の話です。どちらも江戸時代に黒田家の側でまとめられた記録が出どころで、官兵衛が生きた時代の記録(一次史料)の裏づけはありません。福岡市博物館は、この二つをまとめて「どれも伝承の域を出ません」と説明しています [1]。区分は「諸説あり」でよいのですが、図鑑の本文が両方の出典を『黒田家譜』にまとめてしまっている点は、事実と食いちがいます。目薬の話は『黒田家譜』には書かれていません [5]。
この話が最初に出てくる史料
(1) 近江源氏の出という話
江戸時代のはじめ、幕府が『寛永諸家系図伝』を作らせたとき、黒田家には整った系図がなく、祖父・重隆より前は「此間中絶」(ここは切れている)とされました。その後、寛文11年(1671)に3代藩主・黒田光之が家臣の貝原篤信(益軒)に『黒田家譜』の編纂を命じ、何度も書き直したうえで宝永元年(1704)に15巻本が完成します。ここで重隆の父として「高政」が登場し、「中絶」がなかったことになりました [2]。近江国黒田村に住んだという「宗清」も、このとき系譜に加わります [2]。
つまり「近江源氏の出」は、同時代の記録ではなく、藩が家の歴史を整えていく過程で形になった系譜です。編纂者の益軒自身も断定はしておらず、途中で作った『黒田世譜』(貞享2年・1685年)では宗清の項に「蓋居江州黒田邑歟」(たぶん近江の黒田村に住んだのだろうか)と推定の形で書き、別の系図では重隆の父を「高清」としています [2]。幕府はこの系譜を最後まで認めず、寛政期に何度も系図を出し直しても「此間断絶」のままでした [3]。
(2) 目薬で財を成したという話
こちらの出どころは『夢幻物語』という近世の書物です。『姫路市史』は「重隆が家伝の目薬を調合し、広峰社の祈祷札につけて播磨一円頒布して財をなし」という『夢幻物語』の説を紹介しています [4]。一方、『黒田家譜』は目薬「玲珠膏」にまったく触れていません。しかも旧福岡藩士・長野誠(芳斎)の『閲史筌蹄』は、この説を「妄説多くして採用すべき事なし」と否定しています [5]。
異説や否定説
- 播磨の土豪説。渡邊大門氏は、室町幕府の奉公衆に佐々木黒田氏が実在したことは認めつつ、『黒田家譜』の祖とされる高政は一次史料に出てこず、重隆が近江に生まれ備前福岡に移ったという話も裏づけがないとします [7]。そのうえで「おそらく黒田氏は、播磨国の一土豪であったと考えられる」とし、貴種であることを示すために佐々木氏や赤松氏の支族を名のったとみます [6]。
- 播磨・西脇(多可郡黒田村)出自説。福岡藩自身が播磨で行った調査記録『播磨古事』(文政12年・1829年、福岡市博物館蔵)には「小寺官兵衛祐隆…は、播磨国多可郡黒田村の産なり」とあります [8]。江戸後期の『荘厳寺本黒田家略系図』も、黒田氏を赤松氏の分かれとします。
- ただし渡邊氏は、荘厳寺本にあらわれる黒田氏歴代が一次史料に一切出ず、『赤松諸家大系図』にも黒田氏がないことから、この説にも否定的です [6]。
- 事典の通説的な記述も「移ったという」と伝聞の形で書かれており、確定した事実としては扱われていません [9]。
- なお備前福岡への移住についても、同族が備前南部に勢力を持っていた根拠がなく、現地に黒田氏の一次史料がないと指摘されています [6]。
後世にどう語られたか
黒田家は江戸時代を通じて先祖さがしを続けました [1]。天明3年(1783)に姫路で父・職隆の墓石が見つかり、寛政5年(1793)には御着で重隆の墓碑が出て、藩は墓所を整備しています [3]。その調査に関わった藩士・山口武乕が、播磨国多可郡黒田村こそ故郷ではないかという地元の伝承を書き留めたものが『播磨古事』です [3][8]。家譜の内容と矛盾する記録を家臣が残していたことになります。目薬の話も、広峯神社の御師(神符を配り歩く人々)が薬をいっしょに売ったという形で語り継がれました [4]。近代に入ってからも、橋本政次『姫路城史』(1952年)が「重隆、目薬を鬻ぐ」の項を立てて『夢幻物語』を典拠に記しており [5]、小説や大河ドラマを通じて「目薬売りの祖父」の像が広く知られるようになりました。西脇市の出自説は、江戸後期に荘厳寺へ奉納されたと伝わる系図を根拠に、近年あらためて注目されたものです [8]。
読者が次に抱く疑問
- 祖父・重隆は実在したのか — 実在は認められています。渡邊氏も重隆・職隆は実在した人物とし、ただし一次史料がとぼしいとします [7]。墓碑も見つかっています [3]。
- 「玲珠膏」という薬名はいつからあるのか — 『黒田家譜』にはなく [5]、埼玉県立久喜図書館の調査でも処方を書いた資料は見つかっていません [4]。薬名がどこまでさかのぼるかは未確認です。
- 幕府はなぜ近江源氏の系譜を認めなかったのか — 「代数が足りない」が理由でした [3]。
図鑑の記述への提案
- 「祖父が目薬『玲珠膏』で財を成した——という家伝の出典は『黒田家譜』と系譜類のみ」は要修正。目薬の話の出典は『夢幻物語』で、『黒田家譜』は玲珠膏に触れず、旧藩士の『閲史筌蹄』はこれを否定しています [5]。出自の話と目薬の話は分けて書くのが正確です。
- 近江源氏説については、『寛永諸家系図伝』段階では重隆以前が「中絶」だったこと、『黒田家譜』(宝永元年完成)で「高政」「宗清」が加わったこと、幕府は最後まで認めなかったことを補うと、「系譜仮託の可能性」という指摘が具体的になります [2][3]。
- 「渡邊大門氏らは播磨土着の国人とみる」は、より正確には「播磨国の一土豪(姫路市あたり)」です [6]。渡邊氏は西脇=荘厳寺本説にも否定的である点を添えると、誤読を防げます [6]。
- 区分「諸説あり」は妥当です。ただし目薬の部分だけは「伝説」に近い扱いが実態に合います [1][5]。
出典
- No.382 黒田家のご先祖さがし(福岡市博物館 アーカイブズ・企画展示)(はじめに)福岡市博物館は、黒田家の目薬売り伝承も近江源氏佐々木氏の一族という出自説も、どれも伝承の域を出ないと説明している。
「目薬売りをしていて財をなしたとか、元々は近江源氏(おうみげんじ)佐々木氏の一族で、中世以来の続く家であるとか諸説ありますが、どれも伝承の域を出ません。」
- No.382 黒田家のご先祖さがし(福岡市博物館 アーカイブズ・企画展示)(2、家の歴史をつくる)『黒田家譜』は寛文11年(1671)に貝原益軒が編纂を始め宝永元年(1704)に15巻本が完成し、そこで重隆の父「高政」が登場して以前の「中絶」がなかったことになった。
「寛文(かんぶん)11(1671)年、光之は家臣の貝原篤信(かいばらあつのぶ)(益軒(えきけん))に命じて、「黒田家譜(くろだかふ)」の編纂を開始させます。「家譜」は幾度も改稿を経て、宝永(ほうえい)元(1704)年に15巻本が完成します。ここでは、重隆以前に「中絶」があったとする前代の記述が訂正されます。「家譜」では重隆の父として、「高政(たかまさ)」という人物が登場し、「中絶」が無かったことになります。」
- No.382 黒田家のご先祖さがし(3・ご先祖のお墓発見/おわりに)|福岡市博物館(おわりに)幕府は『寛政重修諸家譜』でも高宗と重隆の間を「此間断絶」のままとし、黒田家の連続した系譜を認めなかった。
「黒田家は、寛政3、5、12、享和(きょうわ)元(1801)年と改訂を加えながら幕府に系図を提出しましたが、高宗と重隆の間は「此間断絶」のままで、「寛永諸家系図伝」からの変更は認められませんでした。代数が足りないというのがその理由でした。」
- 黒田官兵衛の祖父の時代の目薬とその処方が知りたい。(レファレンス協同データベース/埼玉県立久喜図書館)(回答(『姫路市史 14 別編』p207の引用))重隆が家伝の目薬を広峰社の祈祷札につけて播磨一円に頒布し財をなしたという話の典拠は『夢幻物語』であると『姫路市史』が記す。
「重隆が家伝の目薬を調合し、広峰社の祈祷札につけて播磨一円頒布して財をなし、その財をもって家臣を召し抱えて頭角をあらわしたという『夢幻物語』の説は事実らしく、薬草の本場伊吹山の西麓に近い黒田村出身というのも根拠のない説ではなさそうである。」
- 黒田官兵衛の祖父の時代の目薬とその処方が知りたい。(レファレンス協同データベース/埼玉県立久喜図書館)(回答プロセス2(『物語福岡藩史』p4の引用))『黒田家譜』は目薬「玲珠膏」に全く触れておらず、旧福岡藩士・長野誠の『閲史筌蹄』はこの説を否定している。
「しかし、「黒田家譜」は目薬「玲珠膏」のことには全然ふれてはいない。旧藩士長野誠(芳斎)が著わした「閲史筌蹄」も、この説を「妄説多くして採用すべき事なし」と否定している。」
- 【戦国こぼれ話】「軍師官兵衛」でも有名になった黒田官兵衛。黒田家の出身地は播磨か近江か(渡邊大門)(■播磨の出自か)渡邊大門氏は黒田氏を播磨国の一土豪とみて、貴種性を示すために佐々木黒田氏や赤松氏の支族を称したと考える。
「おそらく黒田氏は、播磨国の一土豪であったと考えられる(兵庫県姫路市あたりの可能性が高い)。何らかの契機に御着城(兵庫県姫路市)主の小寺氏と結びつき、その配下に収まったのであろう。そして、自らの貴種性をアピールするため、佐々木黒田氏や赤松氏の支族と称するようになったと考えるのが妥当ではないか。」
- 私たちが知る黒田官兵衛の姿は、『黒田家譜』に書かれた虚像だった(渡邊大門)(本文中盤(『黒田家譜』の疑問点))渡邊大門氏は、黒田氏の祖とされる高政は一次史料に登場せず、重隆が近江に生まれ備前福岡へ移ったという記述にも関連する一次史料がないと指摘する。
「たとえば、黒田氏の祖とされる高政は、一次史料に登場しない人物であり、その存在自体が疑わしい。重隆(官兵衛の祖父)は実在した人物であるが、近江国黒田(滋賀県長浜市)に生まれ、備前国福岡(岡山県瀬戸内市)に移ったというが、関連する一次史料がないので疑わしい。」
- 黒田官兵衛を西脇市(多可郡黒田村)生まれとする史料|官兵衛の里・西脇市(西脇市観光物産協会)(播磨古事)福岡藩が播磨で行った調査をまとめた『播磨古事』(1829年・福岡市博物館蔵)には、官兵衛は播磨国多可郡黒田村の産と記されている。
「播磨における黒田氏に係る調査や伝承をまとめたもので、1829(文政12)年に著されており、現在は福岡市博物館に所蔵されています。 その中には、次のような記述があります。 小寺官兵衛祐隆(孝隆[よしたか]、後の黒田官兵衛)は、播磨国多可郡黒田村の産なり。 その村名にちなんで、後に黒田氏に改めて、姫路城を相続して居城する。」
- 黒田氏(日本大百科全書/コトバンク)(日本大百科全書(ニッポニカ)「黒田氏」)事典の通説的記述でも、近江国伊香郡黒田村から備前福岡へ移ったという系譜は「移ったという」と伝聞の形で書かれている。
「鎌倉末期、宗満(むねみつ)のとき近江国(おうみのくに)伊香郡黒田村(滋賀県長浜(ながはま)市)に住んで黒田氏を称し、のち高政(たかまさ)のとき備前国(びぜんのくに)邑久(おく)郡福岡(岡山県瀬戸内(せとうち)市)に移ったという。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。