〈黒田官兵衛〉関ヶ原で九州から天下を狙った

九州での快進撃(石垣原の戦い等)は史実。だが「天下取りの野望」を示す一次史料はなく、根拠は『黒田家譜』の「家康への大言」など後世史料。渡邊大門氏は所領拡大(切り取り次第の恩賞期待)と解するのが自然と結論。一方で光成準治氏らは九州平定構想の実在に一定の余地を認め、解釈には幅がある。

検証リサーチ

「〈黒田官兵衛〉関ヶ原で九州から天下を狙った」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 85 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

九州での快進撃は史実。だが「天下取り」の最古の形は官兵衛没後19年の長政遺言状で、同時代史料にはない。区分は諸説あり(後世の脚色寄り)。

くわしい根拠

結論

九州での戦い(石垣原合戦など)は「史実」です。別府市の文化財解説にも、慶長5年(1600)旧暦9月13日に黒田官兵衛孝高(如水)と大友義統が別府で戦い、黒田方が勝ったことが日付つきで書かれています[1]。

いっぽう「天下を狙った」の部分は、同時代の史料に「天下を取るつもりだ」と本人が書いたものが見つかりません。話がまとまった形で出てくるのは、官兵衛の死から19年後に書かれた息子・長政の遺言状と、そのさらに100年ほど後の逸話集です[4][5]。ですから区分「諸説あり」は妥当ですが、本文は「史実の部分」と「後世の作り話に近い部分」を分けて書くのが正確です。

この話が最初に出てくる史料

いちばん古い形は、黒田長政が亡くなる2日前、元和9年(1623)8月2日に書いた遺言状(「黒田家文書」)です[5]。歴史学者の渡邊大門氏によれば、この遺言状は黒田家の優れた点を誇るために「架空の話」をいくつも並べており、「もし官兵衛が西軍についていたら家康を倒せた」という空想が書かれています[5]。原本は近年見つかったもので、それ以前は『黒田家譜』のような編纂物(後からまとめ直した本)の記述でしか知られていませんでした[5]。

次が江戸時代中期の逸話集『常山紀談』です。ここでは官兵衛が死に際に「関ヶ原で石田三成がもう少し持ちこたえたなら、九州から攻め上って日本を手に入れたかった。そのときは息子(長政)を捨てて一博奕(いちばくち)打つつもりだった」と語ったことになっています[4]。渡邊氏は、この『常山紀談』の話は長政の遺言状が「ネタ」になった可能性が高いとみています[5]。

つまり流れは「①同時代の書状(天下の話は出てこない)→ ②長政の遺言状(1623年)→ ③『常山紀談』(江戸中期)→ ④明治・大正の伝記」の順になります。

異説や否定説

同時代の文書が示す如水の望みは「天下」ではなく「領地」でした。慶長5年8月25日、井伊直政は長政あての書状で、如水が九州で自由に戦い、切り取った土地を自分のものにしてよいと伝えています(「黒田家文書」)[6]。同年9月16日付の如水書状(藤堂高虎あて、『高山公実録』所収)にも、切り取った領地を自分のものにしたいと書かれています[6]。渡邊氏は「二次史料には如水に天下への志があったかのように書かれているが、それは虚説に過ぎない」と結論づけます[6]。

ただし解釈が割れる同時代史料もあります。慶長5年10月の吉川広家あて書状には「あと1か月続いていれば中国地方にも攻め込むつもりだった」という趣旨があり、「野心家・如水」という俗説の出どころはここだとされます[2]。「中国地方まで」を「天下」と読むかどうかが、研究者で割れる点です。

なお諏訪勝則『黒田孝高』(吉川弘文館)は、関ヶ原で如水が「九州で独自の戦いを展開」したとし、「軍師」像そのものを組み立て直す立場です[8]。光成準治『九州の関ヶ原』(戎光祥出版、2018年)も、九州の戦いを大名たちの「生き残りをかけた激戦」として描いています[9]。

後世にどう語られたか

有名な「左手」の逸話——家康が右手を取って礼を言ったと報告した長政に、官兵衛が「そのときお前の左手は何をしていた」と言った、という話——は、同時代史料にはありません。明治の福本日南『黒田如水』、大正の金子堅太郎『黒田如水傳』などに載る、比較的新しい話です[3]。渡邊氏も「史実とみなし難い」「根拠が不詳」としています[4]。

そして通説は事典にまで入りました。旺文社日本史事典は孝高を「兵略にすぐれ隠居後もなお天下をとる気概をもった」と説明しています[7]。事典に載ると、多くの人はそれを史実と受け取ります。

読者が次に抱く疑問

Q1. なぜ長政は「架空の話」を遺言に書いたの? 渡邊氏は、黒田家の優越性を誇示するためだと見ています[5]。関ヶ原での手柄を大きく語ることは、江戸時代の大名家にとって家の格を守る手段でした。

Q2. 勝ち続けたのに、如水は何ももらえなかったの? 家康が認めた「切り取り自由」は戦後に反故にされました[6]。ただし長政には筑前一国が与えられ、黒田家は約52万石の大大名になっています[6]。

Q3. 石垣原と関ヶ原、どちらが先? 石垣原が9月13日で、関ヶ原(9月15日)の2日前です[1]。別府市の年表では、義統が降伏したのは関ヶ原と同じ9月15日です[1]。

図鑑の記述への提案

  1. 初出史料をより正確に。現行の「根拠は『黒田家譜』の『家康への大言』など後世史料」を、「もっとも古い形は元和9年(1623)の黒田長政遺言状(「黒田家文書」)、次いで江戸中期の『常山紀談』。『黒田家譜』などの編纂物はその下流」に改めることを提案します[4][5]。
  2. 「一次史料はなく」を一段細かく。「『天下を狙う』と明記した同時代史料はない。ただし関連する同時代の書状(井伊直政書状、藤堂高虎あて如水書状、吉川広家あて書状)はある」とすると、読者が誤解しません[2][6]。
  3. 光成準治氏の見解は典拠を明記してください。今回の公開情報の範囲では、光成氏が「九州平定構想の実在に余地を認めた」と読める記述を確認できませんでした。書名・章・頁の追記を提案します[9]。
  4. 「左手」逸話を併記する場合は、明治・大正の伝記が出どころだと注記を[3]。
  5. 石垣原合戦の日付(慶長5年9月13日、関ヶ原の2日前)を本文に明記すると、「史実の部分」が読者に伝わりやすくなります[1]。

出典

  1. 大河ドラマ「軍師官兵衛」ゆかりの石垣原合戦(いしがきばるかっせん)|別府市(「石垣原合戦に関する説明看板を設置しました」の節・年表)
    石垣原合戦は慶長5年9月13日に別府で行われ、関ヶ原合戦の2日前に黒田・松井方が勝ったことが自治体の文化財解説でも確認できる。
    「石垣原合戦と呼ばれるこの戦いは、関ヶ原合戦の2日前に両軍が激突し、黒田・松井方の勝利で終結しました。」
  2. 黒田孝高 - Wikipedia(「人物・逸話」節)
    「天下を狙った野心家・黒田如水」という現代の俗説の出どころは、慶長5年10月の吉川広家あて書状の解釈だとされる。
    「また慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた書状に、「関ヶ原の戦いがあともう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであったが、家康の勝利が早々と確定したために何もできなかった」とある。現代に於ける「天下を狙った野心家・黒田如水」との俗説はここからきていると思われる。」
  3. 黒田孝高 - Wikipedia(「左手は何をしていた」逸話の出典について)(「人物・逸話」節(黒田長政との逸話))
    「そのときお前の左手は何をしていた」の逸話は同時代史料になく、明治の福本日南『黒田如水』や大正の金子堅太郎『黒田如水傳』に記される。
    「この逸話は同時代史料に存在する話ではなく、明治時代に福本日南が著した『黒田如水』や大正時代に金子堅太郎が著した『黒田如水傳』等で記述されている話である。」
  4. 【戦国こぼれ話】黒田長政と「恐るべき天才軍師」父・官兵衛との知られざる逸話3選(渡邊大門)- Yahoo!ニュース エキスパート(「■天下を望んだ官兵衛」の節)
    官兵衛が「九州から攻め上って日本を手に入れたかった」と遺言したという話は江戸中期の逸話集『常山紀談』に載るもので、「左手」逸話は根拠不詳で史実とみなし難いと歴史学者の渡邊大門氏は述べる。
    「次に紹介するのは、官兵衛が死に臨んで、長政に遺言した逸話である(『常山紀談』)。 私は無双の博奕の上手である。関ヶ原で今少し石田三成が持ちこたえたなら、九州から攻め上り、日本を掌中に収めたかった。そのときは、子である汝(長政)を捨てて、一博奕打とうと思ったのだ。」
  5. 【戦国こぼれ話】黒田官兵衛が天下を狙っていたという話は、子の長政の遺言状に書かれた大嘘である(渡邊大門)- Yahoo!ニュース エキスパート(「■黒田長政の遺言状」の節)
    「天下取り」の話のもっとも古い形は元和9年(1623)8月2日の黒田長政遺言状(「黒田家文書」)で、黒田家の優越性を誇示するための「架空の話」が並ぶ。
    「黒田長政は、亡くなる2日前の元和9年(1623)8月2日に遺言状を書き残した(「黒田家文書」)。まさしく最期の力を振り絞ったものであった。 この遺言状は、家臣の栗山大膳利章と小河内蔵允正直に宛てられたものである。 封紙の上書には「元和九年九月十五日封」とあり、栗山利章と小河正直の割印が押されている。 長政の遺言状は、これまで編纂物などの記載によってしか知られなかったが、最近になって原本が発見された。 紙の継ぎ目に長政の黒印が押されるなど、不審な点はないとされている。 問題なのは、長政が黒田家の優越性を誇示するため、数多くの「架空の話」を列挙していることだ。」
  6. 黒田如水は「九州の関ヶ原」で活躍したが、天下を取れなかった当たり前の理由(渡邊大門)- Yahoo!ニュース エキスパート(本文中盤(「切り取り自由」をめぐる記述))
    同時代の文書(慶長5年8月25日井伊直政書状、9月16日付如水書状)が示す如水の望みは切り取った領地の獲得であり、天下取りは二次史料由来の虚説だと渡邊大門氏は論じる。
    「同年8月25日、井伊直政は長政に書状を送り、如水が九州での自由な軍事活動と切り取った領地を自分のものにすることを許した(「黒田家文書」)。九州では西軍勢力が盤踞していたので、家康は如水に征伐を期待したのだ。 同年9月16日付の如水書状(藤堂高虎宛)には、切り取った領地を自分のものにしたいと書かれている(『高山公実録』所収文書)。如水の希望は、家康に承諾されたと考えてよい。後世に成った二次史料によると、如水は最終的に家康を打ち負かし、天下を取ろうとしたとまで書かれている。」
  7. 黒田孝高とは? 意味や使い方 - コトバンク(旺文社日本史事典 三訂版ほか)(旺文社日本史事典 三訂版「黒田孝高」)
    「隠居後もなお天下をとる気概をもった」という通説的な人物像は、一般向けの事典の項目にも定着している。
    「兵略にすぐれ隠居後もなお天下をとる気概をもった。またキリシタン大名としても有名で,洗礼名をドン=シメオンといった。」
  8. 黒田孝高(諏訪勝則著)- 株式会社 吉川弘文館(内容説明)
    研究書では、関ヶ原で如水が九州で独自の戦いを展開したことを前提に「軍師」像そのものの再検討が進んでいる。
    「家督を嫡男長政に譲った後も小田原攻めや朝鮮出兵に従軍するなど豊臣政権を支えた。関ヶ原の戦いでは徳川家康に与して九州で独自の戦いを展開。「軍師」とされた実像に迫る。」
  9. シリーズ・実像に迫る018 九州の関ヶ原(光成準治 著)- 戎光祥出版(書誌紹介文(2018年12月刊行、A5判・並製・112頁))
    光成準治『九州の関ヶ原』は、関ヶ原に連動した九州の戦いを大名たちの生き残りをかけた戦いとして扱う専門書である。
    「天下分け目の関ヶ原に連動して燃え上がる九州。佐賀関の戦い、加藤清正の熊本制圧、鍋島直茂と立花親成(宗茂)の激闘など、野望あふれる武将たちの生き残りをかけた激戦の行方を探る。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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