〈立花宗茂〉旧臣が内職で支えた浪人生活
改易から御書院番頭5,000石での出仕(1604頃)、棚倉1万石での大名復帰(1606)という骨格は確実。だが由布雪下ら旧臣の献身的な内職エピソードは家伝・逸話集由来の脚色を含むとみられる。浪人期の実像は中野等氏らが文書から再構成を進めている分野。
検証リサーチ
「〈立花宗茂〉旧臣が内職で支えた浪人生活」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
旧臣の内職話は同時代史料になく、家伝・逸話集どまりの伝承。復帰の年次・石高も1603年説など諸説あり、図鑑の「骨格は確実」は要修正。
くわしい根拠
結論
「由布雪下(ゆふ せっか=由布惟信)ら旧臣が内職(本業のあいまの手仕事)をして浪人中の立花宗茂を養った」という場面は、同時代の書状や日記では確認できませんでした。今回たどれたのは、江戸〜明治にできた家伝・逸話集の系統までです。旧臣が浪人中の宗茂に付き従ったこと自体は複数の記録にあります[1]。ですからこの逸話は「諸説あり」より一段弱い、伝承(言い伝え)寄りと考えるのが安全です。しかも図鑑が「確実」と書く復帰の年次と石高のほうも、本ごとに食い違っています[3][4]。
この話が最初に出てくる史料
宗茂の浪人期そのものには記録があります。柳川藩(立花家)に伝わった帳簿「京伏見大坂町人御扶持方調(きょうふしみおおさかちょうにんごふちかたしらべ)」(十八世紀後半の成立)です。これを紹介したのが大澤研一「柳河藩立花家文書にみえる近世初期大坂町人」(大阪歴史博物館研究紀要20、2022年、19〜28頁)[6]。同論文が引く同帳簿は、柳川開城のあと宗茂が肥後高瀬へ移り、慶長6年(1601)秋に上京、慶長8年まで京都・大坂に滞在し、京都では大徳寺の大慈院と小河彦次郎の家、大坂では住吉屋藤左衛門と鍋屋吉右衛門の家に逗留した、と記します。つまり藩自身の記録が伝える浪人期は「旧臣の内職」ではなく、京・大坂の商人や寺が宿と便宜を提供した姿です[6]。
史料の階層で言うと、いちばん強いのは宗茂自身の書状などの同時代史料です。これは実在し、立花家史料館の特別展でも展示されています[8]。しかしそこに「旧臣が内職をした」という話は伝えられていません。次に強いのが上の藩の帳簿のような近世の記録ですが、これも十八世紀後半の成立で、内職には触れません[6]。
いっぽう「内職」の話が結びつけられるのは、『立斎旧聞記』『立花遺香』『柳川藩叢書』といった立花家の家伝・逸話集や、『名将言行録』の系統です。『名将言行録』を編んだ岡谷繁実は幕末の館林藩中老で、明治になって修史局(政府の史料編纂機関)で働いた人物[5]。同時代人の証言ではなく、二百数十年あとの編集物です。これらの原文を今回オンラインで全文確認できず、「内職」の初出を一点に特定するには至りませんでした。
異説や否定説
まず大名復帰の年次と石高が、本ごとに違います。
- 『日本大百科全書』…1603年(慶長8)に徳川秀忠に召し出され陸奥棚倉1万石、1610年に3万石[3]
- 『改訂新版 世界大百科事典』(棚倉藩)…1603年に2万5000石で入封[4]
- 日本語版ウィキペディア(立花宗茂)…1603年に高田の宝祥寺で蟄居、1604年に御書院番頭5000石、1606年に棚倉1万石[1]
- 同(由布惟信)…1603年に棚倉1万石[2]
図鑑が「確実」とする部分に、実は複数の説があるわけです。ついでに言えば、棚倉に立派な城があったわけでもありません。棚倉城が築かれたのは宗茂が去ったあとの寛永2年(1625)で、次の藩主・丹羽長重が幕府の命で築いたものです[9]。復帰直後の宗茂は、城を持たない小さな知行の主でした。
つぎに旧臣の居場所です。柳川市(柳川古文書館)の解説は、1620年の再封のとき「肥後の加藤清正のもとに預けられていた旧家臣たちを呼び寄せ」たと述べます[7]。多くの旧臣は江戸で内職をしていたのではなく、肥後に預けられていたことになります。江戸で宗茂に随行したのは由布惟信・十時連貞ら少数と伝えられます[1]。
後世にどう語られたか
浪人期の宗茂の書状そのものは現存し、立花家史料館の特別展でも「領地を失い浪牢の身となった宗茂の書状」として展示されました[8]。改易→浪人→復帰という骨格そのものは動きません[7]。
だからこそ「一度改易されて旧領に戻った珍しい大名」という物語が、近世から近代にかけてくり返し語られました。柳川藩自身が編んだ家伝・逸話集がその土台をつくり、明治の『名将言行録』のような全国向けの武将伝がそれを広め[5]、戦後は小説や大河ドラマ、ゲームが引き継ぎます。忠義の家臣が身を削って主君を支える、という型は語りとして強く、内職の話はその型に合わせた肉づけの一つとみるのが自然です。逆に言えば、京・大坂の商人が宿を提供したという地味な事実[6]は、物語としては採用されにくかったのだと考えられます。
読者が次に抱く疑問
Q1. 由布雪下とは誰ですか。 立花道雪以来の重臣・由布惟信の号です。改易後も宗茂に随い、棚倉では宗茂に代わって子の惟次とともに藩内行政を担当したと伝わります[2]。
Q2. 浪人中の生活費はどこから出たのですか。 加藤清正の食客としての扱い[1]、京・大坂の商人宅や大徳寺での逗留[6]が、記録から見える支えです。内職の収入を記す史料は確認できません。
Q3. なぜ内職の話が広まったのですか。 家伝・逸話集が近代の通俗書に流れ込み、小説やゲームで反復されたためとみられます。ただし今回、その伝播経路を史料で追い切れていません。ここは断定できない部分です。
Q4. 内職の話は「うそ」なのですか。 そうとも言い切れません。浪人生活が苦しかったこと自体は、加藤清正や商人の援助を受けていた事実の裏返しでもあります。言えるのは「裏づけとなる史料をまだ誰も示せていない」ということまでです。
図鑑の記述への提案
区分「諸説あり」は妥当です。本文は次の3点を直すことを提案します。
- 「御書院番頭5,000石での出仕(1604頃)、棚倉1万石(1606)という骨格は確実」→「事典類は1603年棚倉1万石とし、2万5000石とする説もあるなど、年次・石高は文献により異なる」に改める[3][4]。あわせて、棚倉城の築城は宗茂の後の1625年である点も補うと誤解が減ります[9]。
- 「家伝・逸話集由来の脚色を含むとみられる」→「近世〜明治の家伝・逸話集の系統でしか確認できず、初出は特定できていない」とさらに慎重に書く[5]。
- 浪人期の実像として、京都・大坂の商人や寺が宿を提供したこと[6]、多くの旧臣は加藤清正に預けられていたこと[7]を一行加える。
出典
- 立花宗茂 - Wikipedia(日本語版)(「江戸時代」節)日本語版ウィキペディアは、宗茂が慶長8年(1603)に由布惟信・十時連貞ら従者とともに江戸高田の宝祥寺で蟄居し、慶長9年(1604)に江戸城へ召し出されたとする。
「誾千代が没してから、慶長8年(1603年)江戸に下った宗茂は本多忠勝の世話で、由布惟信・十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送り始め、慶長9年(1604年)忠勝(一説は本多正信)の推挙で江戸城に召し出される。」
- 由布惟信 - Wikipedia(日本語版)(「生涯」節)同じ日本語版ウィキペディアでも由布惟信の記事は慶長8年(1603)に宗茂が棚倉1万石に封じられたとしており、立花宗茂の記事の1606年説と食い違う。
「慶長8年(1603年)、宗茂が将軍・徳川家康に見出されて棚倉藩1万石に封じられると、江戸で将軍に近侍する宗茂に代わって、子の惟次と共に藩内の行政を担当した。」
- 立花宗茂とは(日本大百科全書ほか)|コトバンク(日本大百科全書(ニッポニカ)の項)『日本大百科全書』は、宗茂の大名復帰を1603年(慶長8)に徳川秀忠に召し出されて陸奥棚倉1万石を与えられたと記す。
「関ヶ原の戦いで西軍に属して、改易されたが、1603年(慶長8)徳川秀忠(ひでただ)に召し出されて、陸奥棚倉(むつたなぐら)(福島県棚倉町)に1万石を与えられた。1610年3万石に加増。」
- 棚倉藩とは(改訂新版 世界大百科事典ほか)|コトバンク(改訂新版 世界大百科事典の項)『改訂新版 世界大百科事典』の棚倉藩の項は、立花宗茂の入封を1603年・2万5000石とし、1万石説と異なる数値を示す。
「1603年(慶長8)立花宗茂が2万5000石で入封し藩をおこした。」
- 岡谷繁実とは(精選版 日本国語大辞典ほか)|コトバンク(精選版 日本国語大辞典の項)『名将言行録』の編者岡谷繁実は幕末の館林藩中老で維新後に修史局で史料編纂にあたった人物であり、同書は宗茂と同時代の記録ではない。
「国史学者。館林藩の中老。維新後、修史局で史料編纂にあたる。著「名将言行録」など。天保六~大正八年(一八三五‐一九一九)」
- 大澤研一「柳河藩立花家文書にみえる近世初期大坂町人」大阪歴史博物館研究紀要20(2022)(書誌ページ(本文はJ-STAGE公開PDFで閲覧))柳河藩立花家文書「京伏見大坂町人御扶持方調」を紹介・検討した研究報告が、大阪歴史博物館研究紀要第20巻(2022年)19〜28頁に掲載されている。
「柳河藩立花家文書にみえる近世初期大坂町人 大澤 研一 著者情報 大澤 研一 [日本] 大阪歴史博物館 [日本] 責任著者(Corresponding author) 研究報告書・技術報告書 フリー 2022 年 20 巻 p. 0019-0028」
- 立花宗茂と吉政|柳川市(柳川古文書館)(「立花宗茂と吉政」本文)柳川市の解説は、再封後の宗茂が肥後の加藤清正のもとに預けられていた旧家臣たちを呼び寄せたとしており、多くの旧臣が江戸ではなく肥後にいたことを示す。
「宗茂は、肥後の加藤清正のもとに預けられていた旧家臣たちを呼び寄せ、領国経営にあたります。」
- 立花家史料館 特別展 立花宗茂|みどころ(インターネットアーカイブ保存版)(第3部 第1章 天下分け目(2020年11月1日保存分))立花家史料館の特別展では、領地を失い浪人の身となった時期の宗茂の書状が実際に展示されており、浪人期の一次史料が現存する。
「関ヶ原の合戦に際して、秀吉への恩義から西軍に加担したため、領地を失い浪牢の身となった宗茂の書状を展示します。」
- 棚倉城築城400年|棚倉町公式ホームページ(「棚倉城の築城」)棚倉城が築かれたのは宗茂が去った後の寛永2年(1625)で、丹羽長重が幕命により築いたものである。
「元和(げんな)8年(1622)に5万石の大名として棚倉藩主となった丹羽(にわ)長重(ながしげ)が、寛永(かんえい)2年(1625)に江戸幕府の命を受けて築城しました。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。