〈立花宗茂〉誾千代との不和・別居

誾千代が柳川城外の宮永に居を構え「宮永殿」と呼ばれたこと自体は事実性が高い(時期は文禄4年説と慶長4年説)。だが「不仲が原因」は後世の記述・創作の影響が大きい。婿の宗茂と元城督の誾千代それぞれに家臣団の求心があり、政治的バランスからの別居という研究上の指摘もある。

検証リサーチ

「〈立花宗茂〉誾千代との不和・別居」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

宮永に住み「宮永殿」と呼ばれたのは事実性が高い。だが「不和が理由」と明記するのは江戸期の家中記録で、同時代の書状に裏づけはない。諸説ありが妥当。

くわしい根拠

結論

誾千代(ぎんちよ)が柳川城を出て、城外の宮永(みやなが)に住み「宮永殿」「宮永様」と呼ばれたこと自体は、江戸時代の家中(かちゅう=藩の家臣団)の記録と、近代の県編纂史料が一致して伝えます。ここは事実性が高いと言えます [1][4]。

しかし「不和(ふわ=仲が悪いこと)が理由だった」と書くのは、同時代の書状ではなく、後の時代にまとめられた記録です。しかも最古級の活字本では、その「不和」という字そのものが確定していません [2][3]。だから図鑑の区分「諸説あり」は妥当です。ただし「別居した事実」と「不和という理由づけ」は、はっきり分けて書く必要があります。

この話が最初に出てくる史料

現在たどれる範囲で、不和を明記する最も古い部類の記録は『立花遺香(たちばないこう)』です。これは宗茂の言行(げんこう=言ったことと行ったこと)を書きとめた本で、国立国会図書館の書誌では高本紫溟(たかもとしめい)編、大正5年(1916年)に国史研究会が活字にしたものとされます [3]。つまり同時代の一次史料(本人たちが生きた時代の書状など)ではなく、後世の編纂物(へんさんぶつ=後からまとめた本)です。

その中で家臣の立花壱岐(いき)は、誾千代が肥後の腹赤(はらか)で戸次(べっき)家の記録を焼いた理由をこう説明します。「宮永様思召も、御尤も千万なる事に候、殿様とは御不知〔和カ〕に候へば、別に誰の為めに、御死去の後、残し置かるべくや」[2]。ここで注意したいのが〔和カ〕という割注です。これは活字化した編者が付けた注で、底本には「不知」と書いてあるが「不和」の誤りだろう、という意味です。つまり不和と読むこと自体が、編者の推定に支えられています。

図鑑が挙げる「文禄4年説」「慶長4年説」については、年を明記した同時代文書を今回は確認できませんでした。年月がはっきりする記述は、慶長5年(1600年)の加藤清正出陣の場面です [1]。また『豊前覚書』にも夫婦不和と記されると紹介されています [5]。

一方、福岡県が編んだ『福岡県史資料』(1935年)は「夫人宮永村ニ居ル。世ニ之ヲ宮永樣ト稱ス」とだけ書き、理由を書きません [4]。住んだ事実と、その理由づけとでは、史料の伝え方に差があるのです。

なお、国立国会図書館の全文検索で「宮永殿」を探すと、明治以降の刊本では『立花遺香』(1916年)と『福岡県三瀦郡誌』(1925年)などに限られ、同時代史料の翻刻には現れません。この呼び名と話は、藩の内部記録から地誌へ、そして一般書へと広がったと見るのが自然です。

異説や否定説

第一に、不和を伝える当の『立花遺香』が、慶長5年の場面では宮永殿を「左近将監殿本妻(ほんさい)」と呼びます [1]。本妻とは正式な妻のことです。少なくともこの記録の書き手は、離婚したとは考えていません。

第二に、同じ場面で家臣たちが「此宮永殿を殊の外大切に仕り候」と語り、清正の軍が宮永を避けて道を変えたと伝えます [1]。追い出された人の扱いではありません。

第三に、慶長5年の柳川開城のとき、宗茂は家老たちに誾千代のことを「能き様に仕り候へ」と命じ、傅役(もりやく)の家である十時(ととき)摂津は、嫡子の八右衛門を供につけて肥後まで従わせています [1]。妻を捨てた夫の行動としては不自然です。

第四に、現在のウィキペディアも「一次史料では不仲を裏付けるものがない」と明記しています [6]。

第五に、方法の問題があります。中野等『立花宗茂』(吉川弘文館・人物叢書、2001年)は、内容紹介で「従来、軍記による武勇伝が流布してきたが、一次史料を駆使し生涯を描いた初の伝記」と説明されます [8]。宗茂の武勇伝が軍記由来で見直されたのと同じことが、不仲話にも当てはまる可能性があります。

後世にどう語られたか

理由づけは時代とともに強くなります。現代の事典では、日本大百科全書が「室は立花鑑連娘、のち離婚して家臣矢島秀行娘を継室とし」と、はっきり「離婚」と書きます [7]。しかし離縁を示す文書は挙げられていません。伝承としての不和が、いつのまにか法的な離婚として語られている例です。

その一方で、柳川の三柱神社は宗茂・道雪・誾千代の三神をまつり、夫婦を切り離さずに顕彰しています [9]。地元の記憶は「不仲の夫婦」一色ではありません。

読者が次に抱く疑問

  1. 別居はいつ始まったのか。今回は年を書いた同時代文書を確認できませんでした。確実なのは慶長5年に宮永にいたことです [1]。文禄4年説・慶長4年説は、根拠史料を示さないと検証できません。
  2. 子がいなかったことが原因か。史料は理由を書きません。宗茂は継室・継々室を迎えても実子がなく、「不和だから子がない」とは言い切れません [7]。
  3. 宮永に移ったのは左遷か。史料の描き方はむしろ逆で、家臣も領民も慕う独立した居館として描かれます [1]。

図鑑の記述への提案

区分「諸説あり」は維持でよいと考えます。そのうえで四点を提案します。

一つ目。「事実性が高い」の対象を「宮永に住み『宮永殿(宮永様)』と呼ばれたこと」に限定し、そう明記してください [1][4]。

二つ目。「後世の記述・創作の影響が大きい」を具体化し、「不和と明記するのは『立花遺香』『豊前覚書』など江戸期の家中記録で、同時代の書状類には確認できない」と書き換えることを提案します [2][5][6]。『立花遺香』では字が「不知」で、活字本の編者が「不和カ」と注記している点も一言添えると誠実です [2]。

三つ目。「文禄4年説と慶長4年説」には典拠(何という史料・研究の何頁か)を添えてください。今回は確認できませんでした。

四つ目。「事実上の離婚」という表現は使わないことを勧めます。『立花遺香』は慶長5年の時点でも「本妻」と呼んでいます [1]。同じく「政治的バランスからの別居」という研究上の指摘も、著者名と書名・頁を添えるべきです。

出典

  1. 立花遺香(底本『立花遺香・銀台遺事・銀台拾遺』国史研究会1916)― Wikisource(本文「清正南の関へ出陣」の条)
    『立花遺香』は慶長5年11月の加藤清正出陣の場面で、宮永に住む誾千代を「左近将監殿本妻」と呼び、家臣が彼女を非常に大切にしていたと記す。
    「其上宮永殿と申す、左近将監殿本妻居られ申し候処、江の浦よりの道筋に近く御座候、此宮永殿と申すは、左近将監殿養父道雪様の娘にて御座候、左近殿家来共、此宮永殿を殊の外大切に仕り候故、此近所へ御人数向ひ候はゞ、左近殿御下知御座なく候ても、何様手強く、鎗を仕るべく候」
  2. 立花遺香「戸次氏記録」の条 ― Wikisource(本文「戸次氏記録」の条(立花壱岐の談))
    不和を明記する『立花遺香』の該当箇所は、活字本の底本では「不知」と書かれており、編者が「和カ」と割注を付けた推定の読みである。
    「宮永様思召も、御尤も千万なる事に候、殿様とは御不知〔和カ〕に候へば、別に誰の為めに、御死去の後、残し置かるべくや、大殿様さばかり御厳重になされたる品々を、志もなき者の手に渡り、兎や角仕るべき事を思召され、御焼失なされたるは、女性の思召には、然るべき事なり」
  3. 立花遺香(日本偉人言行資料)― 国立国会図書館サーチ 書誌(書誌情報(著者・出版者・出版年))
    『立花遺香』は同時代の一次史料ではなく、高本紫溟編として国史研究会が1916年に刊行した言行資料である。
    「著者 高本紫溟 編ほか 出版者 国史研究会 出版年 1916」
  4. 福岡県編『福岡県史資料』(1935年)― 国立国会図書館 次世代デジタルライブラリー全文検索(検索語「夫人宮永」のヒット箇所(資料ID 1213915『福岡県史資料』1935年))
    福岡県が編んだ『福岡県史資料』は、誾千代が宮永村に住み世に「宮永様」と呼ばれたという事実だけを記し、その理由は書いていない。
    「夫人宮永村ニ居ル。世ニ之ヲ宮永樣ト稱ス。○三ノ丸ヨリ二ノ丸ニ架スル橋ニ、銅製ノ擬寶珠ヲ欄干ニ冠ス。」
  5. 立花誾千代 ― ウィキペディア日本語版(「略伝」節(『豊前覚書』にもとづく記述))
    柳川移転後に誾千代が城を出て宮永に居を構え「宮永殿」と呼ばれ、その理由は夫婦不和と記されている、と『豊前覚書』にもとづき説明されている。
    「しかしながらその後、誾千代は城を出て宮永に居を構えて「宮永殿」と呼ばれるようになる。そのわけは、夫婦不和と記されている。」
  6. 立花誾千代(不仲説への留保)― ウィキペディア日本語版(「略伝」節 末尾)
    不仲・事実上の離婚とされる一方で、不仲とはいえない挿話も多く、一次史料には不仲を裏付けるものがないと整理されている。
    「柳河(現・福岡県柳川市)移転後に宗茂と別居(事実上の離婚)するなど、夫とは不仲であったと言われ、夫婦の間に子供はいなかった。しかし宗茂と誾千代をめぐるエピソードには「不仲」とはいえないものも多く、一次史料では不仲を裏付けるものがない。」
  7. 立花宗茂 ― コトバンク(日本大百科全書〈ニッポニカ〉)(日本大百科全書(ニッポニカ)「立花宗茂」)
    現代の大型事典は、誾千代との関係を伝承の域を超えて「離婚」と断定的に記述している。
    「室は立花鑑連娘、のち離婚して家臣矢島秀行(やじまひでゆき)娘を継室とし、その没後葉室頼宣(はむろよりのぶ)娘をめとった。」
  8. 中野等『立花宗茂』(人物叢書・新装版、吉川弘文館、2001年)― 国立国会図書館サーチ(資料詳細「要約等」)
    立花宗茂については従来、軍記にもとづく武勇伝が広まっており、一次史料による見直しが2001年の中野等の伝記で本格的に行われた。
    「従来、軍記による武勇伝が流布してきたが、一次史料を駆使し生涯を描いた初の伝記。」
  9. 三柱神社 ― 柳川市観光協会 公式サイト(スポット紹介文)
    柳川の三柱神社は立花宗茂・戸次道雪・誾千代の三神を合わせて祀っており、地元では夫婦を切り離さずに顕彰している。
    「「西国一の強者」と称された百戦錬磨の武将 初代柳川藩主立花宗茂公、岳父 戸次道雪公、宗茂室 誾千代姫の三神をお祀りし、必勝・成就・復活の御利益と共に「復活の神様」として地域の皆様に崇敬されています。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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