〈立花宗茂〉「忠義も剛勇も鎮西一」評

九州平定期に秀吉が島津戦での働きを高く評価したことは文書からうかがえる。ただし「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」という対句の名文句そのままは後世の編纂物・伝記類に見えるもので、一次史料上の文言としては確認しにくい。

検証リサーチ

「〈立花宗茂〉「忠義も剛勇も鎮西一」評」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

秀吉が宗茂を激賞したのは史実。ただし書状の言葉は「誠九州之一物候」で、「忠義も剛勇も鎮西一」の対句は名将言行録にも藩翰譜にも無い後世の言い換え。区分は諸説ありのままでよい。

くわしい根拠

結論

「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」という「対句そのもの」は、一次史料(同じ時代の書状)にも、江戸時代の編纂物にも、戦前の活字本にも見つかりませんでした。いっぽうで、秀吉が島津戦での立花宗茂の働きを激賞したことは、秀吉自身の書状で確かめられます。ただしそこでの言葉は「誠九州之一物候(まことに九州一の逸材だ)」であって、「忠義」と「剛勇」を並べた名文句ではありません [1]。区分は「諸説あり」のままでよいのですが、中身は「ほめられた事実は史実/名文句は後世の言い換え」と分けて書くのが正確です。

この話が最初に出てくる史料

天正14年(1586)、島津軍が立花城を攻めあぐねて退いた直後、宗茂は追撃し、高鳥居(たかとりい)城を攻め落として城主の星野兄弟らを討ち取りました。秀吉はこの報告を受け、黒田孝高(勘解由)・安国寺恵瓊・宮木入道の三人に宛てた書状にこう書いています [1]。

今度、味方城式三ケ所不慮之所、無異儀相抱候儀、奇特に被思召候所、如此之段、誠九州之一物候

(味方の城が二、三か所あっけなく落ちたなかで、立花城を無事に守り抜いただけでも見事なのに、この働きだ。まことに九州一の逸材である、という意味)

この書状は秀吉文書を集めた『豊公遺文』(日下寛編、博文館、1914年)に翻刻があります。日付は翻刻によって「九月十日」とするものと「十月三日」とするものがあり、そろっていません [1]。

秀吉は同じ時期に、宗茂本人へ何通も書状を出しています。『柳川市史』に翻刻された立花文書には、島津方を追撃した働きへの「誠以粉骨無比類候」(十月十一日付では「誠以無比類手柄共候、但天下之面目不過之候」)といった言葉が並びます [9]。ほめ言葉の量は多いのですが、「鎮西一」という決まり文句は一度も出てきません。

宗茂本人に宛てた判物(はんもつ=署名入りの命令書)では「誠以粉骨無比類候、然而其方事忠節儀候間、新地褒美等可被仰付之間」とあり、「忠節」と「粉骨(ほねおり)」がほめられています [9]。つまり「忠義」も「武勇」も秀吉の言葉として実在します。しかし「鎮西一という語も、二つを並べる対句も、書状には出てきません」。

異説や否定説

「鎮西(九州の古い呼び名)」を使って宗茂を評した古い例は、新井白石『藩翰譜』(元禄15年=1702年成立)です。ただし中身は忠義ではなく勇のほうです [2]。

に本多平八郎忠勝あり鎮西に立花左近将監宗茂あり天下無双の勇士なりと感しおふせられ

「東国に本多忠勝、鎮西に立花宗茂、天下無双の勇士」という対であって、ここに「忠義」は入りません。

逆に「忠義+九州第一」をひとまとまりの秀吉のせりふとして書くのは、柳川藩系の記録のほうです。参謀本部『日本戦史 九州役』(1911年)が『将軍記』などから引く形はこうです [3]。

を討取る條、比類なき働武勇忠義の士、九州第一の者也と、甚だ御感賞ありければ

つまり「鎮西」系統(藩翰譜)と「忠義+九州第一」系統(柳川藩の記録)は、もともと別の話です。今よく見る「忠義も剛勇も鎮西一」は、この二つが混ざり、漢文調に整えられた形と考えられます。

後世にどう語られたか

幕末から明治にかけて岡谷繁実がまとめた『名将言行録』は、両方を採録しています。書状のほうは「又黒田、宮木、安国寺へ賜はりし書には、立花は九州第一の者とぞ仰下さる」 [5]、対面の場面はこうです [4]。

手柄の上の手柄、誠に比類なき働なり、忠義の士、九州第一と言ながら、上方にも汝程の若者あるべしとも覺えず

編者の岡谷繁実は幕末の館林藩士で、維新後に修史局で史料編纂にあたった人です [7]。戦国から260年以上あとの編纂物で、同時代の記録ではありません。

なお事典類(日本大百科全書・世界大百科事典など)は、九州平定の戦功と柳川13万石余の拝領は書きますが、「鎮西一」の評は載せません [6]。柳川市の文化財解説も宗茂の経歴を述べるだけで、この対句は出てきません [8]。

読者が次に抱く疑問

「逸物」と「一物」はどちらが正しい? 書状の原文は「一物」です。「とびぬけた一個の存在」という意味で、「逸物」は後の書き方です [1]。

秀吉は本人に直接言ったの? 現存する激賞の文言は、黒田孝高らへの書状のなかにあります。本人宛の判物は「粉骨無比類」「忠節」といった言い方です [9]。面と向かって言ったという場面は、後世の記録に出てくる形です [4]。

「西国無双」はどうなの? これも『名将言行録』や『藩翰譜』が伝える話で、秀吉が本多忠勝と宗茂を並べたという場面と結びついています [2][4]。

なぜ「鎮西」なのか? 鎮西は九州の古い呼び名です。九州を「鎮西」と言い換えると文が引き締まるため、「九州第一」よりも「鎮西一」のほうが決まり文句として広まりやすかったと考えられます。ただし、そう言い換えたのが誰でいつかを示す史料は、いまのところ見つかりません。

生年は? 柳川市の解説は永禄10年(1567)、事典類は1567年・1568年・1569年と割れています [6][8]。年を書くときは注意が必要です。

図鑑の記述への提案

  1. 区分「諸説あり」は維持でよい。
  2. 「文書からうかがえる」を具体化する。「秀吉が黒田孝高・安国寺恵瓊・宮木入道に宛てた書状に『誠九州之一物候』とある」「宗茂本人宛の判物には『忠節』『粉骨無比類』とある」と書くと、根拠がはっきりします [1][9]。
  3. 「後世の編纂物・伝記類に見える」は「見えない」に直すべきです。対句そのものは『名将言行録』にも『藩翰譜』にもありません。あるのは「忠義の士、九州第一」 [4]、「立花は九州第一の者」 [5]、「鎮西に立花左近将監宗茂あり、天下無双の勇士」 [2] です。
  4. したがって「鎮西一」の対句は、現代の読み物が「九州第一」を漢文調に言い換えたものである可能性が高い、と書くのが正確です。
  5. 年代を補う。島津との攻防と書状は天正14年(1586)、柳川入封は天正15年(1587)です [8]。「九州平定期」とだけ書くと、どちらの年か曖昧になります。

出典

  1. 国立国会図書館デジタルコレクション全文検索(次世代デジタルライブラリー)―『豊公遺文』豊臣秀吉[著]/日下寛編、博文館、1914年(検索語「誠九州之一物」/『豊公遺文』345〜346頁の該当箇所(同趣旨で日付が「十月三日」の書状も併載))
    秀吉が黒田孝高・安国寺恵瓊・宮木入道に宛てた書状の原文には「誠九州之一物候」とあり、「忠義」「剛勇」を並べた対句や「鎮西一」の語はない。
    「今度、味方城式三ケ所不慮之所、無異儀相抱候儀、奇特に被思召候所、如此之段、誠九州之一物候」
  2. 国立国会図書館デジタルコレクション全文検索(次世代デジタルライブラリー)―新井白石『藩翰譜』(写本・および大槻如電校訂本)(検索語「東國に本多平八郞忠勝あり」/『藩翰譜』12巻[5](写本)立花宗茂の条)
    「鎮西」の語で宗茂を評する古い例は新井白石『藩翰譜』(1702年成立)で、内容は「東国に本多忠勝、鎮西に立花宗茂、天下無双の勇士」であり忠義は含まない。
    「に本多平八郎忠勝あり鎮西に立花左近将監宗茂あり天下無双の勇士なりと感しおふせられ」
  3. 国立国会図書館デジタルコレクション全文検索(次世代デジタルライブラリー)―参謀本部編『日本戦史 九州役』元真社、1911年(検索語「星野兄弟を討取る條、比類なき働」/『日本戦史 九州役』補伝・262頁付近)
    柳川藩系の記録(『将軍記』等)を引く『日本戦史 九州役』補伝では、秀吉の賞詞は「武勇忠義の士、九州第一の者也」という形で伝えられており、「鎮西一」の対句ではない。
    「を討取る條、比類なき働武勇忠義の士、九州第一の者也と、甚だ御感賞ありければ、宗茂も士の冥理に叶ひたる忝き御詞と、感涙をぞ催しける御前伺候の諸士も、羨まざるは無かりけり」
  4. 国立国会図書館デジタルコレクション全文検索(次世代デジタルライブラリー)―岡谷繁実『名将言行録』3(岩波書店、1944年)ほか(検索語「忠義の士、九州第一」/『名将言行録』3(岩波書店1944)153頁、『評註名将言行録』中(非凡閣1943)245頁)
    『名将言行録』の立花宗茂の条では、秀吉の賞詞は「忠義の士、九州第一」と記され、「其忠義鎮西一」という対句にはなっていない。
    「翌年四月、秀吉渡海あり、宗茂謁しければ、是までの軍功を一々に算へ、仰せられて、手柄の上の手柄、誠に比類なき働なり、忠義の士、九州第一と言ながら、上方にも汝程の若者あるべしとも覺えずと、御感斜めならず、伺候」
  5. 国立国会図書館デジタルコレクション全文検索(次世代デジタルライブラリー)―岡谷繁実『名将言行録』3(岩波書店、1944年)ほか(検索語「立花は九州第一の者」/『名将言行録』3(岩波書店1944)153頁、『評註名将言行録』中(非凡閣1943)245頁)
    『名将言行録』は秀吉が黒田・宮木・安国寺へ与えた書状の内容を「立花は九州第一の者」と要約しており、これは秀吉書状の「九州之一物」に対応する。
    「又黑田、宮木、安國寺へ賜はりし書には、立花は九州第一の者とぞ仰下さる。」
  6. コトバンク「立花宗茂」(日本大百科全書ほか)(日本大百科全書(ニッポニカ)「立花宗茂」(荒野泰典執筆))
    標準的な事典の立花宗茂項は九州平定の戦功と柳川13万石余の拝領を記すが、「鎮西一」という秀吉評は載せておらず、生没年も資料により異なる。
    「86年九州の諸大名に先だって豊臣(とよとみ)秀吉に服し、翌年の九州征伐には先鋒(せんぽう)を務めた。その戦功により柳川13万石余を与えられ、従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)に叙任、左近将監(さこんしょうげん)と称した。」
  7. コトバンク「岡谷繁実」(日本大百科全書ほか)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「岡谷繁実」)
    『名将言行録』の編者岡谷繁実は幕末の館林藩士で維新後に修史事業に関わった人物であり、同書は戦国期の同時代史料ではなく幕末〜明治の編纂物である。
    「維新後は修史館御用掛などをつとめ,「名将言行録」を編集した。大正9年12月9日死去。86歳。通称は鈕吾。」
  8. 柳川市「紙本著色立花宗茂像 附 旧箱 一箇 旧表具 一点」(福岡県指定文化財)(文化財解説本文)
    柳川市の文化財解説は宗茂の生年を永禄10年(1567)とし、天正15年の柳川入封を記すが、「鎮西一」の評には触れていない。
    「像主である立花宗茂は、永禄10年(1567)に大友家の武将、高橋運紹(じょううん)の長男として生まれました。」
  9. Wikipedia日本語版「立花宗茂」(脚注に『柳川市史』史料編V 立花文書の翻刻を掲載)(脚注『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四二 豊臣秀吉判物 P.363)
    宗茂本人に宛てた秀吉判物では「粉骨無比類」「忠節」といった語で賞されており、これが「忠義」評の一次史料上の実体である。
    「誠以粉骨無比類候、然而其方事忠節儀候間、新地褒美等可被仰付之間」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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