〈本多忠勝〉稽古では不器用だった

戦場での槍働きは古今無双だが、平時の教練では甚だ不器用だった — 松浦静山『甲子夜話』(江戸後期の随筆)による意外な話。桑名で舟巡視中、櫂で葦を「鎌で刈ったように」切ったという怪力譚も後世逸話。実戦の人、という人物像を伝える点で味わい深い。

検証リサーチ

「〈本多忠勝〉稽古では不器用だった」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

同時代史料には無い話。よりどころの『甲子夜話』は忠勝没後211年に書き始められた随筆で、該当の巻・条も確認できず。区分は「伝説(後世の逸話)」寄りが妥当。

くわしい根拠

結論

「戦場の槍働きは無双だが、稽古(教練)では甚だ不器用だった」という話は、同時代の史料には見あたらない。よりどころとされる『甲子夜話』は、忠勝が死んでから200年以上あとに書かれた随筆(エッセイ)で、著者が見聞きした話や側近が持ちこんだ噂を集めたものである[2][3]。しかも、その『甲子夜話』のどの巻のどの条に載るのかを示した文献を、今回は確認できなかった。よって現時点では「史実」でも「諸説あり(=対立する説がある)」でもなく、「後世の随筆に伝わる話で、裏づけは取れていない」と書くのが正確だと考える。

この話が最初に出てくる史料

『甲子夜話』は肥前平戸藩(長崎県)の9代藩主・松浦静山(まつら せいざん)の随筆である。文政4年(1821)11月17日に書き始め、天保12年(1841)に亡くなるまで書き継がれた。正編100巻・続編100巻・3編78巻の計278巻で、「自身の見聞や、側近のもたらす異聞・雑記を収載している」[2]。いっぽう本多忠勝は天文17年(1548)生まれ、慶長15年(1610)没[3]。起筆は忠勝の死の211年後にあたる

忠勝の死から『甲子夜話』起筆までの年数
211年
慶長15年(1610)没→文政4年(1821)11月17日起筆
出典: [2] 甲子夜話とは - コトバンク(山川 日本史小辞典 改訂新版ほか)

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平戸松浦家は、もともと武辺咄(ぶへんばなし=合戦の思い出話)を集める家だった。4代藩主・松浦鎮信は元禄9年(1696)に『武功雑記』を著し、天正〜元和期の武将の武勲を集めている[4]。静山自身も「学芸大名」と呼ばれ、城内に楽歳堂文庫を設けて図書1万7千冊余りを集めた[5]。だから『甲子夜話』に戦国武将の逸話が載ること自体は不思議ではない。ただしそれは代々集めてきた伝聞であって、忠勝を実際に見た人の記録ではない。

史料には順番がある。①忠勝と同じ時代の書状や日記、②江戸時代の編纂物(家譜・軍記・地誌)、③近代以降の研究、④通俗書やネット記事——という並びで、後ろへ行くほど確かさは下がる。今回の話は、いちばん確かな①には無く、②の中でもかなり遅い時期の随筆にしか出てこない。

一方、江戸幕府が編んだ『東照宮御実紀附録』(『徳川実紀』の付録)には忠勝の話がいくつも載る。たとえば小牧・長久手のとき「己が手勢わづか八百人もて」秀吉の大軍とにらみ合った話である[7]。しかしその全25巻(約31万字)を通して「不器用」「稽古」という語は一度も出てこない。稽古下手の話は、幕府の公式編纂物には入っていない。

異説や否定説

はっきり否定した説は見つからなかった。ただし裏づけも無い、というのが実情である。ここは大事な区別で、「二つの説が対立している」のではなく「一つの後世の話があるだけで、確かめようがない」状態にある。

また『甲子夜話』は、幕末の世相や風俗を知るうえでは第一級の史料と評価される随筆である[2]。しかしそれは、静山が生きた時代のことを書いた部分についての評価だ。200年前の武将の稽古ぶりとなれば、伝聞のさらに伝聞になる。同じ本の中でも、記事によって信頼度は変わると考えるべきである。

注意したいのは、「実戦は強いが平時は不調法」というのが江戸の逸話集によくある型だという点だ。『東照宮御実紀附録』には、福島正則の家老三人が体に障害を負っているのを笑った若者を家康が叱り、「総じて武士は生れ付かぬ片輪になるものよと覚悟をきはめねば、武功はなし得ざるものなれ」と諭した話がある[6]。武功者は見ばえがしない、という語り方はすでに定番だった。近世の軍書(合戦を書いた本)は「軍学・記録・教訓・娯楽・考証といった多様な顔を持つ書物群」だと指摘されている[8]。逸話は教訓を伝える道具でもあり、型どおりに整えられることがある。

後世にどう語られたか

櫂(かい)で葦(あし)を「鎌で刈ったように」切った話は、日本語版ウィキペディアでは槍の話のすぐ次に並んでいるが、そこには出典の注が一つも付いていない[1]。図鑑の本文はこのウィキペディアの記述とほぼ同じ形をしている。つまり現在ネット上に広まっている形は、ウィキペディア経由と考えてよい。

なお舞台の桑名は木曽三川の河口にあり「昔から洪水の多い地域」で[9]、忠勝が桑名10万石の藩主になったのは慶長6年(1601)である[3]。舟で葦原を見回る情景そのものは土地柄に合う。ただし「情景が自然」であることは、話が本当だという証拠にはならない。

読者が次に抱く疑問

Q. 本当に『甲子夜話』に載っているの? — 載っている可能性はあるが、今回は巻・条を示す文献に行き当たらなかった。確かめるには平凡社・東洋文庫版『甲子夜話』(正編・続編・三編)を通しで当たるのが確実である。

Q. 稽古が下手で戦が強い、はあり得る? — 心理的にはあり得る。ただし上のとおり同じ型の逸話が他にもある[6]。「あり得る」ことと「あった」ことは別である。

Q. 忠勝は武芸そのものが下手だったの? — この話が言うのは「教練(型どおりの稽古)が不器用」であって、武芸全般が下手という意味ではない。もし本当なら「型どおりの動きが苦手」という意味になる。ただし前提として、話自体の裏づけが取れていない。

Q.「五十数回戦って無傷」は本当? — これも事典に載る有名な伝えだが[3]、根拠は後世の家譜・逸話である。忠勝の人物像は、かなりの部分が江戸時代に整えられたものと考えたほうがよい。

図鑑の記述への提案

  1. 区分は「諸説あり」より「伝説(後世の逸話)」寄りに。対立する説があるのではなく、裏づけが取れていないのが実態である。
  2. 「松浦静山『甲子夜話』(江戸後期の随筆)による」は、「文政4年(1821)起筆の随筆『甲子夜話』が伝えるとされる(巻・条は未確認)」と直すのが正確[2]。
  3. 櫂と葦の話は『甲子夜話』の話と切り離し、「出典未詳の後世の逸話」と明記する。
  4. 「桑名で舟巡視中」に「息子の忠政と」を補うと、話の形が読者に伝わりやすい[1]。

図表

『甲子夜話』の巻数
278巻
正編100巻・続編100巻・3編78巻。該当箇所の巻・条は未特定
出典: [2] 甲子夜話とは - コトバンク(山川 日本史小辞典 改訂新版ほか)

出典

  1. 本多忠勝 - Wikipedia(日本語版)(「人物」>「武勇」節)
    図鑑本文とほぼ同文の記述がここにあり、槍の話には『甲子夜話』とだけ添えられて巻・条の注はなく、櫂と葦の話には出典の注が一つも付いていない。
    「戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で戦場での忠勝を知らぬ人が見ると意外と思ったという(『甲子夜話』)。桑名へ移封後のある日、息子の忠政と小舟で巡視に出ている時に「櫂で葦を薙いでみろ」と言い、忠政が葦を薙ぎ倒したのに対し、忠勝は鎌で刈ったように切り取ってしまった。」
  2. 甲子夜話とは - コトバンク(山川 日本史小辞典 改訂新版ほか)(山川 日本史小辞典 改訂新版「甲子夜話」の解説)
    『甲子夜話』は松浦静山が文政4年(1821)11月17日に起筆し天保12年(1841)まで書き継いだ全278巻の随筆で、自身の見聞と側近がもたらした異聞・雑記を収めたものである。
    「平戸藩主だった松浦静山(まつうらせいざん)著の随筆。正編100巻・続編100巻・3編78巻の計278巻と目録3巻。1821年(文政4)11月17日に起筆し,41年(天保12)没するまで書き継がれた。書名は甲子(きのえね)の夜に起筆したことに由来し,自身の見聞や,側近のもたらす異聞・雑記を収載している。」
  3. 本多忠勝とは - コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「本多忠勝」の解説)
    本多忠勝は1548年生まれ1610年没で、慶長6年に伊勢桑名藩主となった。「五十数回の戦いで一度も傷を受けなかった」という伝えも事典に載る。
    「1548-1610 織豊-江戸時代前期の武将,大名。天文(てんぶん)17年生まれ。本多忠高の長男。徳川家康につかえる。五十数回の戦いにでて一度も傷をうけなかったという歴戦の勇者で,徳川四天王のひとり。天正(てんしょう)18年上総(かずさ)(千葉県)大多喜に10万石を領し,慶長6年伊勢(いせ)(三重県)桑名藩主本多家初代。」
  4. 武功雑記とは - コトバンク(百科事典マイペディア)(百科事典マイペディア「武功雑記」の解説)
    平戸松浦家は静山より前から武将の武勲談を集めており、4代藩主松浦鎮信が1696年に『武功雑記』を著している。
    「肥前(ひぜん)平戸(ひらど)藩4代藩主松浦鎮信(しげのぶ)(天祥)が記した戦話。1696年成立。天正〜元和期(1573年―1624年)の諸士諸将の武勲を雑記したもので」
  5. 松浦家のお殿様 - 松浦史料博物館(「松浦家のお殿様」9代藩主静山の項)
    松浦静山は平戸藩9代藩主で「学芸大名」と呼ばれ、城内に楽歳堂文庫を設けて図書1万7千冊余りを収蔵した収集家だった。
    「9代藩主(松浦家34代)静山は学芸大名とも呼ばれます。16才で藩主になりますが、 20才の時に藩校維新館を城内に開き、家臣の教育につとめました。」
  6. 東照宮御実紀附録 巻十一 - ウィキソース(翻刻)(巻十一「福島正則家康に謁す」の条(典拠注記〈岩淵夜話、校合雑記、〉))
    「武功者は平時に見ばえがしない」という語り方は近世の逸話集に定型として存在し、家康の教諭としても語られている。
    「かの三人は武勇の誉高き者どもなれば、正則が家にても、追々に家長にまで取立てられ、家康が目通にも出づるとあるは、なむぢやう栄耀の事ならずや、されば汝等が忰心には、彼等にあやかり度と思ふべきなり、さるまことの心付なきゆゑ、咲も出づるなれ、総じて武士は生れ付かぬ片輪になるものよと覚悟をきはめねば、武功はなし得ざるものなれ、」
  7. 東照宮御実紀附録 巻四 - ウィキソース(翻刻)(巻四 小牧・長久手の記事(典拠注記〈柏崎物語、〉))
    幕府編纂の『東照宮御実紀附録』は忠勝の戦場での働きを詳しく載せるが、稽古が不器用だったという話は載せていない。
    「本多平八郎忠勝は小牧山に残り守りしが、秀吉が大軍押出すをみて、遮り伐たむといふ、酒井忠次・石川数正きかざれば、己が手勢わづか八百人もて川水にそひ、秀吉が大軍と睨みあひつゝ川越に押して行く、秀吉其大胆にして且忠烈なるを感ず、」
  8. 井上泰至「写本軍書の機能」『日本文学』63巻10号, 2014年, pp.2-11(J-STAGE)(抄録)
    近世の軍書・逸話類は記録であると同時に教訓や娯楽の役割も担っており、書かれている内容をそのまま事実として扱うことはできない。
    「軍書は、軍学・記録・教訓・娯楽・考証といった多様な顔を持つ書物群であり、それ故に近世文学の外縁に位置しながら、読み物としての、あるいは小説・演劇等に主に歴史の方面から養分を送り続ける役割を果たした。」
  9. 江上雅彦・篠原修「正保絵図を用いた桑名城郭の微地形復原」『土木計画学研究・論文集』17巻, 2000年, pp.83-88(J-STAGE)(抄録)
    忠勝が藩主となった桑名は木曽三川の河口に位置する低湿な水辺の城下町で、舟で葦原を見回る情景と土地柄は矛盾しない。
    「木曽三川の河口に立地する東海道の要衝であった城下町桑名は、昔から洪水の多い地域であり、城下町の設計では十分にその対策を考えたはずである。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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