〈本多忠勝〉本多正信への「腰抜け」発言

「佐渡守の腰抜け」「同じ本多でもあやつとは無関係」と言い捨てたという話は江戸期の逸話集による。武功派と吏僚派の対立構図を象徴する話として流布したが、発言そのものの一次史料はない。

検証リサーチ

「〈本多忠勝〉本多正信への「腰抜け」発言」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

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まず結論

「佐渡守の腰抜け」発言は伝説寄り。江戸の主要編纂物にも見当たらず出典書名を特定できない。対立の原型は『三河物語』の大久保忠教による正信批判にある。

くわしい根拠

結論

本多忠勝が本多正信を「佐渡守の腰抜け」と呼び、「同じ本多でもあやつとは無関係」と言い捨てたという話は、史実として確かめられない。同時代の書状や日記に無いだけでなく、江戸時代の主な編纂物(へんさんぶつ=後からまとめた歴史書)を探しても、この発言そのものが出てこない[1][3][4]。区分は「諸説あり」よりも「伝説(出典が特定できない)」に近い。ただし、武功の家が吏僚(りりょう=事務方)を嫌う空気そのものは、同時代の史料に確かに残っている[1]。

この話が最初に出てくる史料

まず押さえたいのは、この発言の出典として具体的な書名を挙げた例を確認できなかったという点だ。図鑑の「江戸期の逸話集による」という説明も、どの逸話集なのかが示されていない。

古い時期の「正信への悪口」でいちばん確かなのは、大久保彦左衛門忠教(ただたか)の『三河物語』(元和8年=1622年ごろ成立)である。ただし言い手は忠勝ではなく大久保である。関ヶ原のとき徳川秀忠が上田城で手間取った件を、こう書く[1]。

佐渡がはからひも隼(はやぶさ)の指引こそよくも可有、武辺のしたる儀は一代に一度もなければ何かよからんや

(佐渡=正信の采配は鷹狩りの指図なら上手だろうが、戦は一度もしていないのだから良いはずがない、という意味)。「腰抜け」という語は使っていないが、中身は「戦を知らない男」という嘲(あざけ)りである。図鑑がいう対立構図の原型は、忠勝ではなくこの本にある。

忠勝本人の逸話を集めた書物としては『忠勝逸事(ただかついつじ)』がある。ただし国立国会図書館のレファレンス事例によれば、別名『本多平八郎忠勝逸事』で、内閣文庫などに写本があるだけで活字化されていない[6]。忠勝の逸話の大もとは、いまも簡単には読めない状態にある。

異説や否定説

否定の材料は複数ある。

1. 『三河物語』自身が「正信の陰謀」説を打ち消している。 正信が大久保忠隣(ただちか)を失脚させたという噂について、忠教はこう書く[2]。

本多佐渡守が大久保相模守をさゝえ申たる由ならわしたり。左様の儀を人がしらでなもなき事申

(世間が言いふらしているが、事情を知らない者の根も葉もない話だ)。続けて「其は人の云なしなり」とも言い切る[2]。正信をいちばん嫌ってよいはずの人物が、対立の物語を否定しているのは重い。しかも『三河物語』は、大久保一族が冷遇された不満を書き残した本でもある[5]。その本ですら、この種の噂を退けている。

2. 幕府の公式編纂物では、忠勝と正信は同じ席に並ぶ重臣である。 『東照宮御実紀附録』巻十一は、関ヶ原の後に跡継ぎを決める評定の顔ぶれをこう記す[3]。

大久保治部大輔忠隣・本多佐渡守正信・井伊兵部少輔直政・本多中務大輔忠勝・平岩主計頭親吉の人々を召し

反目を示す記述はない。

3. 「武者らしくない正信」は、正信自身の冗談として記録されている。 大坂夏の陣で正信が馬に乗って本陣へ上ってきた場面[4]。

正信、高虎にむかひ、何がしが今日の武者振はいかにと笑ひながらいふ

からかい合ったのは藤堂高虎で、笑いながら返したのは正信本人。ここに忠勝は出てこない。

後世にどう語られたか

「腰抜け」という悪口自体は、当時ちゃんと使われていた。同じ『東照宮御実紀附録』巻十五には、家康が尾張勢の遅れに怒って「隼人めの腰抜め」と成瀬正成をののしる場面がある[4]。だから言葉づかいは時代に合う。合っていないのは「誰が誰に言ったか」の部分だ。

こうした話が広まる典型的な経路が、幕末から明治にかけて作られた『名将言行録』(岡谷繁実、1854〜1869年)のような逸話集である。ただしこの本は、当時流布していた話を集めただけの箇所もあり、歴史学の世界では信頼性に乏しい「俗書」扱いをされている[7]。現在いちばん読まれている日本語版ウィキペディアの「本多忠勝」でも、この発言を載せた一文には脚注(出典)が付いていない[8]。出典が示されないまま引用が重ねられている状態だといえる。

読者が次に抱く疑問

  • 忠勝と正信は本当に仲が悪かったの? → 二人の個人的な反目を示す記録は見つからなかった。ただし『三河物語』のように、武功の家が吏僚を嫌う空気は確かにあった[1][5]。「忠勝が言った」ことと「そういう空気があった」ことは別に考えたい。
  • 「腰抜け」は江戸時代の言葉なの? → 用例はある。家康が別の家臣に使っている[4]。言葉が古いことは、発言が本当だった証拠にはならない。
  • 出典を探すならどこを見ればいい? → 『忠勝逸事』の写本(国立公文書館内閣文庫ほか)や、早稲田大学が持つ『本多系図』に付く「忠勝之逸事」を実地に読む必要がある[6]。翻刻(活字化)されていないため、ネット上の記述だけでは追跡できない。

図鑑の記述への提案

  1. 区分を「諸説あり」→「伝説(出典未確認)」に変えることを提案したい。複数の説が競っているのではなく、そもそも典拠が示せていないためである。
  2. 「江戸期の逸話集による」は書名が特定できないので、「出典とされる江戸期の書名は特定されていない」と改めるのが正確だ。
  3. 「武功派と吏僚派の対立構図を象徴する話として流布した」は残してよい。ただし「その対立構図自体、『三河物語』は正信の陰謀説を『人の云なし(根も葉もない噂)』として否定している」と一文を添えたい[2]。
  4. 「発言そのものの一次史料はない」は正しい。さらに「江戸幕府編纂の『東照宮御実紀附録』にも確認できない」と加えると、検証の範囲がはっきりする[3][4]。

出典

  1. 三河物語(大久保忠教)— ウィキソース(下巻・秀忠上田城攻めの条)
    『三河物語』は、関ヶ原のときの秀忠の上田での遅れを本多正信の采配のせいだと非難しており、正信への嘲りは忠勝ではなく大久保忠教の筆に見える。
    「佐渡がはからひも隼(はやぶさ)の指引こそよくも可有、武辺のしたる儀は一代に一度もなければ何かよからんや」
  2. 三河物語(大久保忠教)— ウィキソース(下巻・大久保忠隣改易をめぐる条)
    『三河物語』は、正信が大久保忠隣を陥れたという噂を、事情を知らない者の根も葉もない話だと明確に否定している。
    「本多佐渡守が大久保相模守をさゝえ申たる由ならわしたり。左様の儀を人がしらでなもなき事申」
  3. 東照宮御実紀附録 巻十一 — ウィキソース(巻十一・家康諸将と世子を議す)
    江戸幕府編纂の『東照宮御実紀附録』では、関ヶ原後の世継ぎ評定に本多忠勝と本多正信がともに列席する重臣として並記され、反目は記されていない。
    「大久保治部大輔忠隣・本多佐渡守正信・井伊兵部少輔直政・本多中務大輔忠勝・平岩主計頭親吉の人々を召し」
  4. 東照宮御実紀附録 巻十五 — ウィキソース(巻十五・大坂夏の陣の条)
    正信の「武者らしくなさ」は、忠勝の罵倒としてではなく、大坂夏の陣で藤堂高虎と正信自身が笑い合う逸話として記録されている。
    「正信、高虎にむかひ、何がしが今日の武者振はいかにと笑ひながらいふ」
  5. 東照宮御実紀附録 巻十五 — ウィキソース(巻十五・成瀬正成家康を罵るの条)
    「腰抜け」は当時実在した罵り言葉で、同書には家康が成瀬正成を「腰抜め」とののしった例が載る。
    「尾張殿の御勢遅々せしを怒らせ給ひ、隼人めの腰抜め、なぜに兵衛をすゝめて早く参らぬぞ」
  6. 三河物語とは — コトバンク(改訂新版 世界大百科事典)(改訂新版 世界大百科事典(高木昭作))
    『三河物語』は大久保一族の不遇を嘆く立場から書かれた自伝で、当時の武士の思想を知る史料として評価される一方、立場に偏りがあることが前提となる。
    「本家大久保忠隣(ただちか)の改易以来,主君から冷遇されていた大久保一族の不遇をなげきながらも,将軍への忠勤を子孫に説くなど,当時の武士の思想や世界観を知る上での好史料である。」
  7. レファレンス協同データベース(国立国会図書館)事例「「忠勝逸事」を探している。」(事例番号 千県中参考-2014-31(千葉県立中央図書館))
    本多忠勝の逸話を集めた『忠勝逸事(本多平八郎忠勝逸事)』は写本で伝わるのみで翻刻本が刊行されておらず、忠勝逸話の原典は容易に参照できない。
    「「忠勝逸事」「本多平八郎忠勝逸事」という別名をもつ伝記で、国立公文書館内閣文庫が写本を収蔵しており、翻刻本は刊行されていないようです。」
  8. 名将言行録 — ウィキペディア日本語版(冒頭の解説部分)
    戦国武将の逸話の主要な供給源である『名将言行録』(1854〜1869年成立)は、巷説を集めた箇所があり歴史学界では信頼性に乏しい書物とされる。
    「そのため整合性の合わない記述なども散見され、史実と乖離しているという指摘も受けており、歴史学界では信頼性に乏しい「俗書」扱いをされている。」
  9. 本多忠勝 — ウィキペディア日本語版(逸話節)
    現在この発言を広めている日本語版ウィキペディアの記述には、脚注(出典)が付いていない。
    「本多正信のことを快く思わず「佐渡守(正信)の腰抜け」「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」とまで言い捨てている。」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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