〈本多忠勝〉真田父子の助命嘆願
関ヶ原後、娘婿・真田信之とともに真田昌幸・信繁(幸村)父子の助命を嘆願し、九度山配流に減刑させたことは広く諸記録が伝える。大筋は事実とみられるが、家康との対話の細部は脚色を含む。忠勝の政治力と家族愛を同時に示す局面である。
検証リサーチ
「〈本多忠勝〉真田父子の助命嘆願」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
助命と高野山配流は事実だが「本多忠勝が嘆願した」は近世前期の記録に無く、諸書は信之ひとりの功とする。区分は「諸説あり」が妥当。
くわしい根拠
結論
関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)のあと、真田昌幸・信繁(幸村)父子が死罪をまぬかれ、高野山のふもとへ流されたこと自体は、江戸時代の複数の記録が一致して伝える。ただし「本多忠勝が助命を願い出た」という部分は事情がちがう。江戸時代前期の記録や幕府の正史では、助けた功はすべて長男・真田信之(信幸)に置かれ、忠勝の名は出てこない[1][2][3]。忠勝の名が加わるのは、より後の軍記・家譜である。よって図鑑の区分「諸説あり」は妥当だが、「広く諸記録が伝える」という書き方は強すぎる。
この話が最初に出てくる史料
史料には段階がある。いちばん強いのは事件と同じ時期に書かれた書状や日記(同時代史料)、次が江戸時代の家譜・軍記(編纂物)、その次が近代以降の研究や事典である。この順で見ていくと、まず慶長5年当時の書状のような同時代史料で「忠勝が嘆願した」と書いたものは、今回の調査では見つけられなかった(探し方は method_note に書く)。昌幸自身が九度山から信之へ送った書状は多数残っているが、それらは生活費の無心や赦免への望みを述べたもので、助命の経緯を説明したものではない。
近世の編纂物(江戸時代に書かれたまとめ本)を見る。
- 甲州流軍学系の『管窺武鑑』は「関ヶ原以後真田安房守、上田城を開き、二男左衛門佐と父子ともに剃髪、黒衣になりて高野山へ登る。嫡男伊豆守を、権現様へ御奉公に出し置き候を以て、御一命を免されて、斯くの如し」と書く[2]。助かった理由は「信之が家康に仕えていたから」である。
- 加賀藩系の『三壺聞書』も「是れ併し伊豆守が此の度の忠節に依りて一命御助け也」とする[1]。
- 幕府の正史『徳川実紀(東照宮御実紀)』でさえ、願い出た人物を信之としている[3]。
忠勝を嘆願者に数える書き方は、後世の軍記『上田軍記』などを典拠として示されることが多い[7]。『上田軍記』は江戸時代に上田で作られた軍記で、事件から百年以上あとの成立と考えられている。つまりこの話は「同時代史料には無い → 近世前期の記録では信之ひとり → のちの編纂物で忠勝が加わる」という順に育った可能性が高い。初出を一冊に特定することは、現状ではできない。
異説や否定説
- 「信之ひとりの功」とする説。真田家の資料館である真田宝物館も、信之の功と助命嘆願によって昌幸が高野山麓へ配流されたと説明する[4]。事典も同じで、ブリタニカは「戦後自分の功によって父と弟の助命を乞い許された」と信之だけを挙げる[5]。
- 他の重臣が動いたとする説。松代藩の系譜『滋野世記』の翻刻には、昌幸の助命は信幸の忠義によるとしたうえで、この時期に井伊直政からの書状があったと記す一節がある(信州地域史料アーカイブの本文検索で確認。頁が分割されて引用の照合ができないため、出典欄には挙げていない)。
- 配流先のずれ。多くの記録は、父子がまず高野山に入り、のちに山を下りて九度山へ移ったとする。「九度山配流」は結果としては正しいが、一段階を省いた言い方になる。上田市の年表や真田宝物館の解説も「高野山麓」「九度山」と表現が分かれている[4][9]。
- 「減刑させた」という因果の強さへの疑い。近世前期の記録は、信之が家康に仕えていたという事実そのものが助命の理由だと書いており[2]、誰かの熱弁で家康の考えが変わった、という筋立てにはなっていない。
後世にどう語られたか
九度山時代の昌幸像は講談(語り物)で大きくふくらんだ。『日本大百科全書』は「高野山下九度山で再起の機をうかがって武を練っていたというのは講談で」とはっきり書く[6]。「幸村」という名も、後世の軍記物や講談本にしか出てこない呼び名である[4]。忠勝の嘆願話も同じ流れの中にあり、「秀忠が死罪を主張し、家康が強く拒んだが、忠勝らが押し切った」といった対話の細部は、近代以降の読み物的な記述で語られるものである[8]。
読者が次に抱く疑問
- 「忠勝はまったく関わっていないのか」。信之の妻・小松姫が忠勝の娘(家康の養女)であったことは確かで、真田家と徳川譜代をつなぐ位置に忠勝がいたのは事実である。ただし「嘆願した」と同時代史料で確かめる材料は見つからない。「無関係」とも「事実」とも断定できない、というのが正直なところである。
- 「いつ上田を出たのか」。上田市の年表は「関ケ原合戦に勝利した徳川方に上田城を明け渡す。昌幸・信繁父子は九度山に配流。」を1601年(慶長6年)の欄に置く[9]。一方で慶長5年12月とする本も多い。和暦と西暦のずれもあるので、日付は出典に書かれた形のまま示すのが安全である。
- 「なぜ死罪にならなかったのか」。『徳川実紀』は上杉・佐竹・島津らも願いのとおり許されたと並べて記しており[3]、関ヶ原後の処分が全体として寛大だった流れの中で読むこともできる。
図鑑の記述への提案
- 区分「諸説あり」はそのままでよい。
- 「娘婿・真田信之とともに…広く諸記録が伝える」は、「江戸時代の主な記録は、助命を願い出た人物を長男・信之とし、本多忠勝の名を挙げるのは『上田軍記』など後世の編纂物である」と改めたい。
- 「九度山配流」は「高野山(のちに九度山)へ配流」とすると、記録の流れに合う。
- 「大筋は事実とみられる」は、(1)助命と配流が行われたことは事実、(2)忠勝が嘆願したという部分は同時代史料で確認できない、と分けて書くと正確になる。
出典
- 『三壺聞書』巻之九(ウィキソース翻刻)(巻之九「上田合戦の事」末尾(NDLJP:69 付近))江戸期の加賀藩系記録『三壺聞書』は、昌幸父子が助命されたのは長男・信之(伊豆守)の忠節によるとし、本多忠勝には触れない。
「上田の真田安房守父子はあつかひに成りて、高野山へ引入りける。是れ併し伊豆守が此の度の忠節に依りて一命御助け也。」
- 『管窺武鑑』下之下第九巻(ウィキソース翻刻)(下之下第九巻(NDLJP:314 付近))甲州流軍学系の『管窺武鑑』は、昌幸父子が高野山へ登った理由を「嫡男伊豆守を家康に奉公させていたため」と説明し、忠勝の嘆願を記さない。
「関ヶ原以後真田安房守、上田城を開き、二男左衛門佐と父子ともに剃髪、黒衣になりて高野山へ登る。嫡男伊豆守を、権現様へ御奉公に出し置き候を以て、御一命を免されて、斯くの如し。」
- 『東照宮御実紀』卷四(『徳川実紀』、ウィキソース翻刻)(卷四 慶長五年関ヶ原合戦後の賞罰の条)幕府の正史『徳川実紀』も、昌幸の助命を願い出た人物を子の信之とし、関ヶ原後の処分が全体に寛大だったと記す。
「眞田昌幸なども。其子伊豆守信之が。軍功にかへて父が首つがん事を願ひければ。これもその願のまゝに聞召入られ。」
- 真田宝物館(長野市松代)「真田家とは」(「松代移封以前の真田家」真田昌幸の項)真田家資料を所蔵する真田宝物館の解説も、昌幸の助命・配流を長男信之の功と助命嘆願によるものと説明する。
「長男・信之が徳川方に属した功と助命嘆願により、昌幸は高野山麓に配流され、所領であった上田領は信之に与えられました。」
- コトバンク「真田信之」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ほか)(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「真田信之」)事典の真田信之の項も、助命を乞うたのは信之自身であるとし、本多忠勝の名を挙げない。
「父の居城である上田城を攻め,戦後自分の功によって父と弟の助命を乞い許された。」
- コトバンク「真田昌幸」(日本大百科全書ほか)(日本大百科全書(ニッポニカ)「真田昌幸」小林計一郎執筆)九度山での昌幸像のうち「再起をうかがって武を練った」という部分は講談による脚色だと事典が明示している。
「高野山下九度山で再起の機をうかがって武を練っていたというのは講談で」
- ウィキペディア日本語版「真田昌幸」(「生涯」>「配流」節)忠勝を嘆願者に数える説明は、後世の軍記『上田軍記』を典拠として示されている。
「東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められた(『上田軍記』)。」
- ウィキペディア日本語版「本多忠勝」(「逸話」節)家康が強硬に拒み秀忠が死罪を主張したという対話の細部は、逸話として語られている形である。
「関ヶ原において西軍が敗戦した際、それに与した真田昌幸・真田信繁(幸村)親子の助命を娘婿の真田信之と共に嘆願したが、両名に散々煮え湯を飲まされている家康は強硬に拒否した。」
- 上田市「上田城の歴史」(上田城サイト)(年表 1601年(慶長6年)の欄)上田市の公式年表は、上田城明け渡しと父子の配流を1601年(慶長6年)の欄に置いている。
「関ケ原合戦に勝利した徳川方に上田城を明け渡す。昌幸・信繁父子は九度山に配流。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。