〈本多忠勝〉信長の「花も実も兼ね備えた勇士」評
武田征伐後に信長が忠勝を「花実兼備」と紹介したという著名な評だが、原拠は江戸期の記録で信長側の一次史料にはない。「天下人がこぞって賞賛した」語りは、徳川家臣の格を高める顕彰文脈で増幅された面がある。武名が織田方に知られていたこと自体は同盟20年の経緯から自然。
検証リサーチ
「〈本多忠勝〉信長の「花も実も兼ね備えた勇士」評」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
同時代史料では裏づけが取れない。確認できる最古の記録は江戸期の聞き書きと幕府編『寛政重修諸家譜』(1812年成立)で、『信長公記』に「花実」の語はない。伝承寄りの「諸説あり」。
くわしい根拠
結論
織田信長が本多忠勝を「花実兼備(かじつけんび=見た目の華やかさと中身の実力の両方をそなえていること)の勇士」と評した、という話は、信長と同じ時代の史料では裏づけが取れない。今回たどれた最も古い記録は、後世の聞き書き『落穂雑談一言集』と、江戸幕府が編んだ系譜集『寛政重修諸家譜』(文化9年=1812年成立)だった[3][4][8]。出来事とされる天正10年(1582年)からは200年以上あとの記録である。図鑑の区分「諸説あり」でよいが、中身は「後世の記録にだけ出てくる伝承」に近い。
ただし、話の舞台じたいは無理がない。信長と家康は永禄5年(1562年)ごろから20年ちかく同盟関係にあり、天正10年の武田攻めでは徳川勢も動いている。信長が忠勝の名を知っていたとしても不自然ではない。問題は「その場でこう言った」という一点が、後世の記録でしか確かめられないことにある。
この話が最初に出てくる史料
『寛政重修諸家譜』の本多忠勝の項は、武田氏が滅んだあとの場面をこう書く。「凱旋にをよび右府天龍川を渡るのとき、忠勝をまねきその戰功を賞し、侍臣をかへりみて、これ三河の士本多平八郎とて花實兼備の勇士なりといふ」[3]。「右府(うふ)」は右大臣、つまり信長のこと。場所は天竜川、場面は凱旋の途中と特定されている。
もう一つ、『大日本史料』(東京帝国大学編)は忠勝が死んだ慶長15年(1610年)の記事に、『落穂雑談一言集』という後世の聞き書きを引く[4]。そこでは場面を書かず、「右大臣信長公ハ、忠勝ハ花實兼備の武士とほめ玉へり、豐臣秀吉公ハ、日本第一古今獨步の勇士と賞美し」と、信長・秀吉・家康の賞賛を一代の総まとめとして並べている[5]。「天下人がそろってほめた」という語り口は、この聞き書きの段階ですでに完成している。
異説や否定説
正面から否定した説は見つからなかった。かわりに、史料の間で言い方と場面が食い違う。ことばは「花実兼備の勇士」(寛政重修諸家譜)と「花実兼備の武士」(落穂雑談一言集)で揺れ、場面も「天竜川を渡るとき」と「場面の指定なし」で揺れる[3][5]。
信長側の同時代史料である『信長公記』(太田牛一が信長の側で見聞したことをまとめた記録)を通して探すと、「花実」ということばは一度も出てこない。忠勝の名は、天正9年(1581年)の高天神城の首注文に「弐拾弐 本田平八郎」と、討ち取った首の数を記す一覧に一度出るだけである[1]。しかも『信長公記』は天正10年4月の信長の帰り道を日ごとに細かく書き、「四月十六日…天龍川へ着せられ爰舟橋懸被置」と天竜川の渡河まで記録している[2]。褒めことばがあったとされるまさにその場面を書きながら、忠勝は現れない。
主な事典類も、この信長評を採らない。コトバンク収録の各事典は、忠勝の武名としてむしろ武田方の小杉左近が詠んだという「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」のほうを挙げる[7]。ここから言えるのは「うそだと証明された」のではなく、**「本当だと確かめる手段がない」**ということである。歴史の話では、この二つを分けて書くことが大切になる。
後世にどう語られたか
『寛政重修諸家譜』は幕府が大名・旗本に家譜を出させてまとめた本で、数字には確かなところもある。たとえば忠勝が高天神で得た首を「二十二級」とする点は、『信長公記』の「弐拾弐 本田平八郎」と一致する[1][3]。だからこの話も丸ごと作り話とは言い切れない。ただし褒めことばの場面だけは、ほかの史料で確かめられない。
近代に入ると記述は地方史に受け継がれた。『岡崎市史』第2巻(1926年)は「天正十年三月甲州既に平ぐ、織田信長凱旋、天龍川を渡る時…彼の如きは花實兼備の勇士と謂ふべし」と、寛政重修諸家譜とほぼ同じ場面を載せる[6]。ここから現代の「花も実も兼ね備えた武将」という言い換えまでは一直線である。一方、忠勝を初代藩主とする桑名市の公式解説は「50回を超える戦で一度も傷を負わなかったと伝えられ」と、伝承であることがわかる書き方をしている[9]。
読者が次に抱く疑問
Q. 信長と忠勝は実際に会えたのか。 会う機会はあった。『信長公記』によれば信長は天正10年4月16日に天竜川を渡っており、そこには家康が舟橋を架けさせていた[2]。家康の重臣である忠勝がその場にいてもおかしくない。ただし名前は記されていない。
Q. 「花実」とはどういう意味か。 花は見た目の華やかさ、実は実際の働きを指す。江戸時代によく使われた褒めことばで、忠勝のためだけの特別な表現ではない。
Q. 『岡崎市史』の「天正十年三月」は正しいのか。 三月は甲州が平定された月で、信長の天竜川渡河は四月十六日である[2]。月をそのまま書き写すと誤解を招く。
Q. なぜ本多家の話ばかり残るのか。 『大日本史料』が忠勝の死の条で並べる参考史料には、本多家に伝わる家譜や聞き書きが多く含まれる[4]。家の由緒を書きとめる人たちが記録の担い手だったため、当主をたたえる話が集まりやすい。裏を返せば、外部の史料による確認がむずかしいということでもある。
Q. 「花も実も兼ね備えた」という現代の言い方はどこから来たのか。 江戸期の史料は漢語の「花実兼備」で、これをやさしく訳したのが現代の言い回しである[3][5]。訳し方の違いであって、別の史料があるわけではない。
図鑑の記述への提案
- 区分は「諸説あり」のままでよいが、本文に初出とみられる史料名を書くことを勧める。「原拠は江戸期の記録」→「確認できる最古の部類は『大日本史料』所引の『落穂雑談一言集』と、幕府編『寛政重修諸家譜』(1812年成立)」[3][4][8]。
- 「信長側の一次史料にはない」は正しい。根拠として**『信長公記』に「花実」の語はなく、忠勝は高天神の首注文に一度出るだけ**と添えると強くなる[1]。
- ことばが「勇士」「武士」で揺れ、場面も「天竜川渡河時」と「場面なし」で揺れることを一行加えると、「諸説あり」の中身が読者に伝わる[3][5]。
- 「天下人がこぞって賞賛した」という指摘は妥当。信長・秀吉・家康の賞賛をセットで並べる形は、すでに『落穂雑談一言集』にある[5]。
- 場面の月を書くなら「武田征伐後の凱旋の途中(信長の天竜川渡河は天正10年4月16日)」とし、「三月」と書かないほうがよい[2][6]。
図表
出典
- 『信長公記』(太田牛一著、Wikisource 翻刻)巻十四(巻十四(三)高天神干殺歴〻討死之事(三月廿五日・討捕頸之注文))信長と同時代の記録『信長公記』に本多忠勝が登場するのは、天正9年の高天神城の首注文に「本田平八郎」が首22級の欄で挙がる1か所だけで、称賛の場面はない。
「四拾弐 酒井左衛門尉 拾六 石川長門守 百七十七 大須賀五郎左衛門 四拾 石川伯耆守 拾 松平上野守 弐拾弐 本田平八郎 六ツ 上村庄右衛門」
- 『信長公記』(太田牛一著、Wikisource 翻刻)巻十五(巻十五(廿三)信長公甲州ヨリ御帰陣之事)『信長公記』は武田氏滅亡後の信長の帰路を日付ごとに詳しく記し、天正10年4月16日に天竜川を舟橋で渡ったと書くが、そこで本多忠勝を招いて褒めた記事はない。
「四月十六日 懸川払暁に立せられみつけ之国府之上鎌田か原みかの坂に 御屋形立置 一献進上也爰よりまむし塚高天神小山手に取計御覧し送池田の宿より天龍川へ着せられ爰舟橋懸被置」
- 国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」全文検索:『寛政重脩諸家譜』第4輯(國民圖書、1923年)617頁(資料ID 1082713(『寛政重脩諸家譜』第4輯)617頁/本多忠勝の項)この逸話が確認できる最も古い部類の記録は江戸幕府編『寛政重修諸家譜』で、天竜川を渡るときに信長が忠勝を招き「花実兼備の勇士」と言ったと記す。
「凱旋にをよび右府天龍川を渡るのとき、忠勝をまねきその戰功を賞し、侍臣をかへりみて、これ三河の士本多平八郎とて花實兼備の勇士なりといふ。」
- 国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」全文検索:『大日本史料』第12編之7(東京帝国大学)659頁(資料ID 782856(『大日本史料』第12編之7)659頁/慶長15年10月18日条の引用史料標記)『大日本史料』は慶長15年10月18日の本多忠勝卒去の条に、後世の聞き書き『落穂雑談一言集』を史料として引用している。
「〔落穗雜談一言集〕三本多平八郎忠勝、大輔、永祿九年丙寅、神君より御簇本の士五十騎忠勝へ御附人として御授與あり」
- 国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」全文検索:『大日本史料』第12編之7 所引『落穂雑談一言集』(資料ID 782856(『大日本史料』第12編之7)659頁/所引『落穗雜談一言集』本文)『落穂雑談一言集』では場面を書かず、信長の「花実兼備の武士」・秀吉の「日本第一古今独歩の勇士」という賞賛を忠勝一代の総まとめとして並べており、語形も「勇士」でなく「武士」である。
「關原、長久手、味方ク原、一言坂、伊賀越等を以働の最上とに、右大臣信長公ハ、忠勝ハ花實兼備の武士とほめ玉へり、豐臣秀吉公ハ、日本第一古今獨步」
- 国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」全文検索:『岡崎市史』第2巻(岡崎市、1926年)(資料ID 1020244(『岡崎市史』第2巻、1926年)362頁)近代の自治体史『岡崎市史』は寛政重修諸家譜とほぼ同じ場面をそのまま採録し、この逸話を地域の顕彰記述として広めた。
「天正十年三月甲州既に平ぐ、織田信長凱旋、天龍川を渡る時、忠勝を召して侍臣を顧みて云ふ、是參州武者本多平八なり、彼の如きは花實兼備の勇士と謂ふべしと、厚くその戰功を賞した。」
- コトバンク「本多忠勝」(改訂新版 世界大百科事典ほか)(改訂新版 世界大百科事典「本多忠勝」(執筆:所理喜夫))主要な事典類は忠勝の武名を語るときに信長の「花実兼備」評を採らず、武田方の小杉左近が詠んだとされる狂歌のほうを挙げる。
「信玄の近習小杉左近はその武勇を〈家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八〉とうたったという」
- コトバンク「寛政重修諸家譜」(精選版 日本国語大辞典ほか)(精選版 日本国語大辞典「寛政重修諸家譜」)『寛政重修諸家譜』は江戸幕府が編んだ系譜集で、文化9年(1812年)に成立した。事件とされる天正10年(1582年)からは約230年後にあたる。
「江戸後期の大名・旗本・御家人らの系図集。一五三〇巻。徳川幕府編。文化九年(一八一二)成立。」
- 桑名市観光サイト「桑名の歴史をたずねて」(桑名市)(「初代桑名藩主となった戦国最強武将・本多忠勝」節)忠勝を初代藩主とする桑名市の公式解説も、有名な武勇伝を断定せず「伝えられ」という書き方で紹介している。
「50回を超える戦で一度も傷を負わなかったと伝えられ、戦国最強武将と称されています。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。