〈本多忠勝〉「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」
一言坂の殿軍を見た武田方・小杉左近の落書と伝わるが、同時代史料になく『改正三河後風土記』系統の軍記で流布。小杉左近自身、武田側史料で裏付けが取りにくい。「唐の頭」は内藤信成の兜とする説まであり来歴は不確か。ただし一言坂で武名を挙げたこと自体は徳川側諸記録が一致して伝える。
検証リサーチ
「〈本多忠勝〉「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
一次史料にはなく「諸説あり」。ただし初出は『改正三河後風土記』系ではなく武田側の『甲陽軍鑑』で、詠み手は「小杉右近助」、場所は「みつけ坂」と記す。
くわしい根拠
結論
この狂歌そのものは、戦国当時の書状や日記といった一次史料には出てきません。ただし「後世の『三河後風土記』系の軍記が作った話」というのも正確ではありません。今たどれるいちばん古い記録は、武田側の軍書「『甲陽軍鑑』」です[1]。そこでは詠んだ人は「小杉右近助」、歌を立てた場所は「みつけ坂」と書かれています[1]。区分は「諸説あり」のままでよいと考えますが、根拠にあげる史料は差しかえが必要です。
この話が最初に出てくる史料
『甲陽軍鑑』品第卅九(元亀三年=1572年の条)に、次のようにあります[1]。
家康少身の家に過たる平八郎也、其上三河武者十人が七八人は唐の頭をかけて出る是も過たりと小杉右近助と申、信玄公御旗本の近習歌によみてみつけ坂にたつる其歌は家康に過たる物は二ツある唐の頭に本多平八とよむ
ここから三つのことがわかります。第一に、詠み手は「小杉右近助」であって「左近」ではありません[1]。第二に、歌を立てた場所は「みつけ坂」です[1]。第三に、「唐の頭」は「三河武者の十人のうち七〜八人が着けていた、それも分不相応だ」という理屈で出てきます[1]。家康個人の兜だから、という説明ではないのです。
ただし『甲陽軍鑑』は、江戸のはじめに小幡景憲(おばたかげのり)がまとめたとされる軍書で、原本は残っていません。「年代や事実の錯誤がみられ、武田氏の実録とはいえない」と評価されています[5]。研究上も「戦国末の様相を伝える軍書」という位置づけで[8]、一次史料と同じ重さでは扱えません。
いっぽう徳川側の当事者が書いた最古級の記録『三河物語』(元和八年=1622年成立)には、見付から一言坂へ退いた場面が具体的に書かれているのに、この狂歌も、本多忠勝の殿(しんがり)も出てきません[2]。そこにあるのは、大久保勘七郎が鉄砲を撃ちはずした話です[2]。
幕府がまとめた正史『徳川実紀』(天保十四年=1843年完成)[4]の逸話集『東照宮御実紀附録』巻二では、狂歌は載ります。しかし詠み手は「甲州人」としか書かれず、場所は「見付の台」、典拠は『柏崎物語』という後世の本です[3]。幕府の編纂物でも、小杉某の名前は出てこないのです。
異説や否定説
名前 最古の『甲陽軍鑑』は「右近助」[1]、事典類は「小杉左近」[6]。その事典も「…とうたったという」と伝聞の形で書いています[6]。詠み手を特定しない書き方の事典もあります[6]。
場所 史料の表記は「みつけ坂」[1]「見付の台」[3]で、「一言坂」という地名では出てきません。ただし『三河物語』は、見付の台へ駆け上がったあと「ひとことの坂」を下ったと書いており[2]、同じ一帯を別の呼び方で指している可能性が高いです。
「唐の頭」の中身 辞書的には、ヤク(犛牛・りぎゅう)の尾の毛を束ねた兜(かぶと)の飾りです[7]。「家康の愛用の兜」説も「内藤信成の兜」説も、今回調べた範囲では裏づけとなる史料を確認できませんでした。『甲陽軍鑑』自身の説明は、上に引いたとおり「三河武者の多くが着けていた」です[1]。なお『甲陽軍鑑』のこの場面には、退却を進言する徳川方の侍大将として「内藤三左衛門」が登場します[1]。内藤を結びつける発想はここから来た可能性がありますが、兜の話としては書かれていません。
後世にどう語られたか
江戸中期以降、軍記や逸話集のなかで人名や場所がだんだん具体的になっていきました。『徳川実紀』は『柏崎物語』を典拠として採録しています[3]。現在では、磐田市の観光案内でも「一言坂で武田軍に言わしめた」という形で紹介されています[9]。事典の記述も、「小杉左近」を採るもの[6]と、詠み手を特定しないものに分かれています[6]。
読者が次に抱く疑問
忠勝が一言坂で目立ったこと自体は本当か。 敵である武田側の『甲陽軍鑑』が、二十五歳の平八郎が黒い鹿角の兜で敵味方のあいだに乗り入れた、と具体的に書いています[1]。徳川側の『東照宮御実紀附録』も、家康が使者を出してほめたと伝えます[3]。系統の違う本が一致するので、ここで武名を上げたこと自体は確度が高いといえます。ただし徳川側で最も古い『三河物語』が忠勝に触れていない点は、留保が必要です[2]。
「唐の頭」はそんなに高価だったのか。 輸入品のヤクの毛でつくった兜飾りで、白いものを白熊(はぐま)などと呼びました[7]。当時の武士に流行した装飾で、『甲陽軍鑑』は三河武者の多くが着けていたと書いています[1]。小身の家康にしては派手だ、という皮肉が歌の骨組みです[1]。
図鑑の記述への提案
一、区分「諸説あり」は妥当だと思います。
二、「同時代史料になく『改正三河後風土記』系統の軍記で流布」→ 最古の出どころは武田側の『甲陽軍鑑』です[1]。『改正三河後風土記』(天保期)より前なので、この一文は差しかえを提案します。
三、「小杉左近」→ 最古の記述は「小杉右近助」[1]。名前に異同があることを書き添えると親切です。
四、「一言坂の殿軍を見た…落書」→ 史料の表記は「みつけ坂」[1]「見付の台」[3]です。一言坂と同じ一帯とみられますが、史料の語を示すほうが正確です[2]。
五、「唐の頭は内藤信成の兜とする説」→ 裏づけ史料を確認できませんでした。出典未確認と注記するか、『甲陽軍鑑』の説明(三河武者の多くが着用)を併記することを提案します[1]。
六、「一言坂で武名を挙げたこと自体は徳川側諸記録が一致して伝える」→ 最古の『三河物語』は忠勝に触れません[2]。「敵方の『甲陽軍鑑』と、のちの徳川側編纂物が伝える」と直すのが正確です[1][3]。
出典
- 甲陽軍鑑 品第卅九(ウィキソース、温故堂明治25-26年刊本を底本)(品第卅九(元亀三壬申年の条))この狂歌の現存最古級の記述は武田側の軍書『甲陽軍鑑』にあり、詠み手は「小杉右近助」、立てた場所は「みつけ坂」、「唐の頭」は三河武者の多くが着けていた飾りとして説明されている。
「家康少身の家に過たる平八郎也、其上三河武者十人が七八人は唐の頭をかけて出る是も過たりと小杉右近助と申、信玄公御旗本の近習歌によみてみつけ坂にたつる其歌は家康に過たる物は二ツある唐の頭に本多平八とよむ」
- 三河物語(大久保忠教、元和8年成立/ウィキソース)(第三下・元亀三年の条)徳川側の当事者が書いた最古級の記録『三河物語』は見付から一言坂への退却を具体的に記すが、狂歌も本多忠勝の殿軍も記していない。
「頓而ひとことの坂之おり立にてのり付けるに、梅津はしきりのり付られ而ならざれば、がん石をこそのりおろしける。其時大久保勘七郎は、とつて帰し而てつぽうを打けるに、一二間にて打はづす。」
- 東照宮御実紀附録 巻二(徳川実紀・幕府編纂/ウィキソース)(巻二・見付の退口の条)幕府編纂の逸話集は狂歌を載せるが、詠み手を「甲州人」とのみ記し、場所は「見付の台」、典拠は後世の『柏崎物語』としており、小杉某の名は出てこない。
「又この日、本多平八郎忠勝度々奮戦して敵を追払ひ、君にも難なく浜松へ御帰城あり、【本多忠勝の奮戦】御途中より成瀬吉右衛門正一もて、忠勝が許へ仰下されしは、今日の働日頃の平八にあらず、たゞ八幡大菩薩の出現ありて、味方を加護し給ひしと思召す由、御感賞ありしとぞ、甲州人が、からのかしらに本多平八といふ狂句を書きて、見付の台へ立てしもこの時の事なり」
- 42.御実紀(東照宮御実紀)|歴史と物語:国立公文書館(本文解説)『徳川実紀』は天保14年(1843)に完成した幕府編纂の正史で、逸話は付録にまとめられている。
「林述斎(はやしじゅっさい)、成島司直(なるしまもとなお)ほかにより、天保14年(1843)に完成した幕府編纂の正史で、家康から10代家治に至る歴代将軍ごとの治績を編年体で記し、逸話については付録としてまとめたものです。」
- 甲陽軍鑑(コトバンク/日本大百科全書ほか)(日本大百科全書(ニッポニカ)「甲陽軍鑑」)『甲陽軍鑑』は江戸初期の軍記で、年代や事実の錯誤がみられ武田氏の実録とはいえないと評価されている。
「年代や事実の錯誤がみられ、武田氏の実録とはいえないが、甲州武士の思考や行動が生々しい迫力で綴(つづ)られており」
- 本多忠勝(コトバンク/改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)(改訂新版 世界大百科事典「本多忠勝」(所理喜夫))事典類は詠み手を「小杉左近」とするが「…とうたったという」と伝聞の形で記し、詠み手を特定しない記述もある。
「信玄の近習小杉左近はその武勇を〈家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八〉とうたったという。」
- 唐の頭(コトバンク/精選版 日本国語大辞典・デジタル大辞泉)(精選版 日本国語大辞典「から の 頭」)「唐の頭」はヤク(犛牛)の尾の毛を束ねた兜の飾りで、白いものを白熊などと呼んだ。
「外来の犛牛(りぎゅう)(=ヤク)の尾の毛を束ねて頭部の飾りとしたもの。多くは兜(かぶと)の飾りとする。」
- 笹本正治「『甲陽軍鑑』に見る夢:戦国末の夢想」『日本文学』48巻7号、1999年、51-59頁(抄録)研究上、『甲陽軍鑑』は「戦国末の様相を伝える軍書」として扱われる。
「戦国末の様相を伝える軍書である『甲陽軍鑑』には、神のお告げなどがあたる実夢、夢を買ったらその通りになったとする夢買い、はかなく実現しない夢などが、物語の背後に記されている。」
- 一言坂の戦跡(古戦場)|磐田市観光協会(スポット解説)現地の観光案内では、この狂歌は一言坂の戦いで武田軍に言わしめたものとして紹介されている。
「1572(元亀3)年、浜松城へ退却する途中徳川軍は一言坂で武田軍に追いつかれました。その際に家臣、本多忠勝(通称・平八郎)の必死の防戦により、徳川軍は味方を一騎も欠けることなく脱出に成功しました。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。