〈本多忠勝〉生涯57戦無傷
典拠は『本多家譜』「大小五十餘戦、未タ嘗テ矢刃ノ為ニ犯サレス」、『参考本多系傅』の「57度」、新井白石『藩翰譜』。すべて本多家側・江戸期の記録で、一次史料で傷の有無は確認できない。重傷の記録がないこと自体は事実だが、「生涯無傷」は武田の馬場信春にもある勇将顕彰の類型表現。
検証リサーチ
「〈本多忠勝〉生涯57戦無傷」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
一次史料では確かめられず「諸説あり」。同時代の『信長公記』『三河物語』にも幕府正史の逸話集にも「無傷」も「57」も無く、はっきり書くのは没後92年の『藩翰譜』から。
くわしい根拠
結論
「本多忠勝は生涯57回の合戦に出て、かすり傷ひとつ負わなかった」という話は、戦国当時の記録(一次史料)では確かめられません。忠勝が出てくる同時代の記録には、傷の有無も、生涯の合戦回数も書かれていないからです[1][2]。はっきりした文章としてたどれるいちばん古いものは、忠勝の死(慶長15年=1610年)から92年あとの元禄15年(1702年)に新井白石がまとめた『藩翰譜(はんかんぷ)』の「終に一所(ひとところ)の手も負わず」です[8]。図鑑の区分「諸説あり」は妥当ですが、典拠の書き方には直したい点があります。
この話が最初に出てくる史料
同時代史料 織田信長の側近が書いた『信長公記』(太田牛一)には、天正9年(1581年)の高天神城の戦いで徳川方が取った首の数え上げがあり、そこに「弐拾弐 本田平八郎」=22という数字が出ます[1]。つまり忠勝は同時代の記録にも登場します。しかし書かれているのは戦果の数字だけで、傷を負ったかどうかも、生涯何回戦ったかも出てきません[1]。
徳川家臣自身の記録 大久保彦左衛門が元和8年(1622年)に書いた『三河物語』にも「本田平八(郎)」は出てきますが、槍を合わせた場面などが記されるだけで、「無傷」も「57回」もありません[2]。
幕府の正史 天保期に完成した『徳川実紀』の逸話集『東照宮御実紀附録』を巻一から巻廿五まで全文で調べても、「五十七」という語も「一度も傷を負わなかった」という文も見つかりません。しかもこの本は、関ヶ原直後の場面で松平忠吉と井伊直政の負傷をわざわざ書きとめています。同じ場面で忠勝は采配ぶりをほめられるだけです[3]。もし「無傷の忠勝」が幕府公認の話だったなら、ここは書き込む絶好の場所でした。
つまりこの話は、没後90年以上たった大名家の由来書『藩翰譜』あたりから表に出てくる、と考えるのが今のところ無理のない見方です[7][8]。
異説や否定説
回数が史料・事典でそろわない コトバンクの「本多忠勝」の項を見ると、同じページの中で数がばらばらです。日本大百科全書は「以後57回の戦いに参加しながら一度も手傷を受けなかった」[6]。いっぽう精選版日本国語大辞典は「家康に従い五十余度の合戦に活躍」とだけ書き、傷の話はしません[6]。ブリタニカ国際大百科事典も「50回余の合戦に参加し」で同じです[6]。講談社の人名辞典は「五十数回の戦いにでて一度も傷をうけなかったという」と、「という」を付けた伝聞の形です[6]。世界大百科事典(所理喜夫執筆)にいたっては、回数も無傷も書きません[6]。「57」は近代の事典でも多数派ではないのです。
書名そのものが確認できないもの 図鑑が典拠にあげる『参考本多系傅』は、CiNii Research の横断検索で「参考本多系図」「参考本多系譜」「参考本多系伝」のどれも0件でした。いっぽう『本多家譜』は19件ありますが、それは膳所・飯山・岡崎・磐城泉など別々の本多家の家譜がそれぞれ「本多家譜」と呼ばれているためで、どの家のどの写本かを言わないと典拠になりません。
正面からの否定説は見当たりません。 正確には「否定も肯定もできない」状態です。傷の有無は本人か近くにいた人の記録がないとわからず、そういう同時代の記録が残っていないからです。
後世にどう語られたか
国立公文書館は、同じ出来事でも「時代とともに記述が変化していっている」「これは、幕府の編纂したものとても同じ」と説明しています[4]。忠勝の話も同じ道すじをたどったと見られます。
『藩翰譜』自体、日本大百科全書は「情景を生き生きさせるための作為や、系図の部分におけるかなりの誤り」という弱点を指摘しています[7]。そして『藩翰譜』は武家に広く読まれた本でした[7]。ここに載れば話は一気に広まります。
同じ型の話は他家にもあります。武田の馬場信春は「武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという」と語られます[9]。数は違うが構造は同じで、勇将をたたえる決まった言い回しだったことがわかります。
なお忠勝については、尾崎晃「本多忠勝(一五四八~一六一〇)——徳川幕府創出の功労者」(『千葉史学』54号、2009年、96〜100頁)のような研究もあります[5]。
読者が次に抱く疑問
Q. 傷を負った記録は本当に一つもないの? 「見つからない」が正しい言い方です。図鑑が引く『本多家譜』の言い方も「未タ嘗テ矢刃ノ為ニ犯サレス」=矢や刃で傷つけられたことがない、という限定つきです。落馬や病気は別の話になります。またウィキペディアが伝える「死の数日前に小刀で左手を切った」という話も、後世の逸話集に載るもので一次史料ではありません[8]。
Q. なぜ「57」なの? 同時代史料は武将ごとの合戦回数を数えません。数え方(前哨戦を1回に数えるか等)しだいで増減する数字です。実際、史料や事典では「五十余度」「五十数回」「57度」と割れています[6]。
Q. 四天王の他の3人はどうだった? 井伊直政は関ヶ原で鉄砲傷を負ったと『東照宮御実紀附録』が明記します[3]。無傷伝説が忠勝だけに付いたのは、記録の差というより語られ方の差だと考えられます。
図鑑の記述への提案
- 区分「諸説あり」は維持でよいと考えます。ただし本文の冒頭で「一次史料では確認できない後世の顕彰表現」だと言い切ってよい水準です。
- 典拠の順番を入れ替える。今は『本多家譜』が先ですが、成立年がはっきり示せる『藩翰譜』(元禄15年=1702年、忠勝没後92年)を「たどれる最古の記述」として先に置くのが読者に親切です[7][8]。
- 『参考本多系傅』は書名を確認できません。所蔵機関と請求記号を特定できるまで、「未確認」と注記するか外すことを提案します。
- 『本多家譜』はどの本多家の家譜かを明記してください。同名の史料が複数あります。
- 「57」と断定しない。「『本多家譜』は五十余戦、事典類は五十数回〜57回と一定しない」と書くほうが正確です[6]。
- 「重傷の記録がないこと自体は事実」は、**「同時代史料に負傷の記録は見当たらないが、忠勝の負傷を書きとめるはずの同時代記録そのものが乏しく、『無傷』の裏づけにはならない」**と直すことを提案します[1][2][3]。
- 馬場信春を引くのは適切ですが、馬場は「70回超・長篠まで」と数も条件も違うので、「同じ型の話が別の武将にもある」という書き方にすると誤解が減ります[9]。
出典
- 信長公記 巻十四(三)高天神干殺歴〻討死之事(太田牛一/ウィキソース)(巻十四(三)高天神干殺歴〻討死之事(天正九年三月廿五日))同時代史料『信長公記』は天正9年の高天神城の戦いで本田平八郎(本多忠勝)の部隊が22の首を取ったと数字で記すが、傷の有無や生涯の合戦回数は記していない。
「【巻十四(三)高天神干殺歴〻討死之事】三月廿五日 亥剋遠江国高天神籠城之者過半及餓死残党こほれ落柵木を引破罷出候を爰かしこにて相戦 家康公為御人数 討捕頸之注文 百参十八 鈴木喜三郎 鈴木越中守 拾五 水野国松 十八 本田作左衛門 七ツ 内藤三【 NDLJP:下30】左衛門 六ツ 菅沼次郎右衛門 五ツ 三宅宗右衛門 弐拾一 本田彦次郎 七ツ 戸田三郎左衛門 五ツ 本田庄左衛門 四拾弐 酒井左衛門尉 拾六 石川長門守 百七十七 大須賀五郎左衛門 四拾 石川伯耆守 拾 松平上野守 弐拾弐 本田平八郎」
- 三河物語(大久保忠教、元和8年成立/ウィキソース)(中巻・吉田攻めの条)徳川家臣自身が元和8年に書いた『三河物語』にも本田平八郎は登場するが、槍働きの場面が記されるだけで無傷や合戦回数の記述はない。
「下地得御働(はたらき)之時、本田平八郎と牧惣次郎が鑓(やり)を合、其時八屋半之丞少をそく出ければ」
- 東照宮御実紀附録 巻十(徳川実紀・幕府編纂/ウィキソース)(巻十・関原の役後、諸将参謁の条)幕府正史の逸話集は関ヶ原直後に松平忠吉・井伊直政の負傷を書きとめる一方、本多忠勝については采配を賞するだけで無傷にも合戦回数にも触れない。
「正則、忠勝が人数扱の様、げに比類なしといへば、忠勝、思ひの外の弱敵にて候といふ、君、中務は今にはじめぬ事よと上意あり、【松平忠吉井伊直政の負傷】やがて下野守忠吉朝臣は手を負はれ、布もて肘をつゝみ、襟にかけて出で給ふ様を御覧じて、下野は手負ひたるかと宣へば、朝臣薄手にて候と答へ給ひながら座につかる」
- 51.寛政重修諸家譜|歴史と物語:国立公文書館(本文解説(語られる戦国時代))国立公文書館は、同じ出来事の記述が時代とともに変化していくことは幕府の編纂物でも同じだと説明している。
「以上、いくつかの書を比べてみると、同じ事項を扱いながらも、時代とともに記述が変化していっている様子がわかります。これは、幕府の編纂したものとても同じ。時代状況や学問の流行など、様々な要因によって歴史は書き換えられ、語られていきました。」
- 尾崎晃「本多忠勝(一五四八~一六一〇)--徳川幕府創出の功労者」『千葉史学』54号、2009年(NDLサーチ書誌)(書誌情報(国立国会図書館書誌ID 10334838))本多忠勝を扱った学術誌の論考として、尾崎晃『千葉史学』54号(2009年5月)96〜100頁がある。
「資料種別記事著者尾崎 晃出版者千葉 : 千葉歴史学会出版年2009-05資料形態紙掲載誌名千葉史学 / 千葉歴史学会 編 (54) 2009.5掲載ページp.96~100」
- 本多忠勝(コトバンク/日本大百科全書・精選版日本国語大辞典・ブリタニカ・日本人名大辞典・世界大百科事典)(日本大百科全書(ニッポニカ)「本多忠勝」ほか同ページ収録の各事典)事典によって合戦回数は「57回」「五十余度」「50回余」「五十数回」と割れ、無傷に触れない事典もある。
「13歳のとき1560年(永禄3)松平元康(もとやす)(後の家康)の尾張(おわり)(愛知県)大高(おおたか)城への兵粮(ひょうろう)搬入に従ったのを初陣として、以後57回の戦いに参加しながら一度も手傷を受けなかったが」
- 藩翰譜(コトバンク/日本大百科全書・世界大百科事典ほか)(日本大百科全書(ニッポニカ)「藩翰譜」(宮崎道生))『藩翰譜』は元禄15年(1702)成立の大名家由来書で、武家に広く読まれた一方、情景を生き生きさせるための作為や誤りという弱点も指摘されている。
「疑わしいことは書かず、実証主義を堅持しているところに学問的良心の強さがみられるが、情景を生き生きさせるための作為や、系図の部分におけるかなりの誤りなどの弱点もある。」
- 本多忠勝(ウィキペディア日本語版)(注釈3)「57回の合戦でかすり傷一つ負わなかった」という伝えの根拠として『藩翰譜』の「終に一所の手も負わず」が注記されている。
「『藩翰譜』では「終に一所の手も負わず」とある」
- 馬場信春(ウィキペディア日本語版)(人物)武田家の馬場信春にも「70回を越える戦闘でかすり傷一つ負わなかった」という同型の伝えがあり、勇将顕彰の類型であることがうかがえる。
「武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。