〈明智光秀〉「三日天下」
実際は変から山崎敗死まで11日間(数え方で12–13日)。「三日」は語呂による江戸期以降の俗称である。しかもこの間、光秀は朝廷への献金、京都の地子銭免除、諸大名への協力要請など「天下人」の実務を行っており、空白の11日間ではなかった。
検証リサーチ
「〈明智光秀〉「三日天下」」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「三日天下」は同時代史料になく後世の俗称(諸説あり)。実際は6月2日〜13日で11〜12日間。江戸の『絵本太功記』はむしろ13日で数えている。
くわしい根拠
結論
「三日天下(みっかてんか)」は、当時の史料に出てくる言葉ではありません。光秀の政権を、あとの時代の人がまとめて言いあらわした「ことわざ」です[2]。実際の期間は、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変から[1]、同じ6月13日の山崎の戦いまで[5]で、数え方によって11日間か12日間になります[9]。図鑑の区分「諸説あり」と、「実際は11日間」という説明は、この点で妥当です。
ただし、直したほうがよい点が三つあります。第一に、「三日」という言い方の初出(いちばん古い出どころ)は、今回の調査では特定できませんでした。第二に、「江戸期以降の俗称」と断定できる根拠も見つかりませんでした。江戸時代の代表的な光秀劇は、むしろ「13日」で数えているからです[4]。第三に、「京都の地子銭免除」は裏づけを確認できませんでした[7]。
この話が最初に出てくる史料
同時代にいちばん近い記録は、信長の祐筆(ゆうひつ=書記)太田牛一が書いた『信長公記』です。ところがこの本は、6月2日の変の直後で終わっています[1]。
六月二日 辰刻 信長公御父子御一門歴〳〵討果し 明智日向申様に落人(オチウド)可有候間家〳〵を扒(サガ)せと申付諸卒洛中之町屋(チヤウヲク)に打入テ落人を扒(サガ)事目も当られす都の騒動不斜
ウィキソース版『信長公記』の全文(約15万字)を検索したところ、「三日天下」「山崎合戦」「小栗栖」はいずれも0件でした[1]。つまり、「三日天下」を書いた同時代史料は「見あたりません」。
辞典類も、この語の初出史料は示しません。示すのは「明智光秀が織田信長を倒してからわずか一三日で羽柴秀吉に倒されたところからいいます」という、由来の説明だけです[2]。辞典が挙げる使用例も、太宰治『如是我聞』(1948年)という近代のものです[2]。同じ意味の言い方として「三日大名」も辞典に載っています[2]。「三日」が実数ではなく、「ごく短い」を表す決まり文句として使われてきたことがわかります。
まとめると、この逸話の出どころは「ある一冊の史料」ではありません。史実(6月2日〜13日)のうえに、あとから慣用句がかぶさった形です。だから「初出史料は不明」と書くのが、いまのところ一番正確です。
異説や否定説
「日数の異説」 辞典のあいだで数字が食いちがいます。『精選版 日本国語大辞典』は「一一日後」[3]、『四字熟語を知る辞典』は「わずか一三日」[2]です。6月2日から13日までを両端とも数えれば12日、6月1日の亀山出陣から数えれば13日になります。どれも「三日」ではありません。
「そもそも天下人だったのか」 光秀が変のあとに参内し、征夷大将軍の宣下を受けたと書く史料(肥後細川家『明智光秀公家譜覚書』)はありますが、その信憑性には疑問の余地があるとされます[9]。一方で、変のあとの政局が光秀を中心に動いたこと自体は間違いない、とも整理されています[9]。
後世にどう語られたか
光秀のイメージをつくったのは、江戸時代の「太閤記物」と呼ばれる読み物・芝居です。流れはおおよそ、小瀬甫庵『太閤記』(江戸初期)→読本『絵本太閤記』(1797〜1802年刊)→人形浄瑠璃『絵本太功記』(1799年初演)→歌舞伎、という順です[4]。その代表が人形浄瑠璃『絵本太功記』(寛政11年=1799年初演)で、全13段、「6月1日から13日までの物語を1日1段に構成した珍しい趣向」でした[4]。つまり江戸の観客が数えていたのは「三日」ではなく「十三日」です。この作品の光秀像については、原田真澄「太閤記物人形浄瑠璃作品に表われた謀叛人―『絵本太功記』の光秀を中心に―」(『演劇学論集』55号、2012年、67〜84頁)という研究があります[6]。
ここから言えるのは、「三日」は13や11という実数から離れ、「ごく短い」を表す言い回しになった、ということです。ただし、それがいつ始まったかを示す江戸期の用例は、今回は見つけられませんでした。ウィキソースに収められた近世〜近代の翻刻テキストを横断検索しても、「三日天下」は0件でした。江戸の芝居がくり返し「十三日」を語っていたことを思えば、「三日」への言いかえは、芝居よりあとの時代に広まった可能性も残ります。
読者が次に抱く疑問
「11日間、光秀は何をしていたのか」 6月8日に安土を発ち、6月9日に参内(さんだい=宮中へ行くこと)して朝廷に銀500枚、京都五山や大徳寺に銀各100枚、勅使の吉田兼見にも銀50枚を贈っています[8]。「空白の11日間ではない」という図鑑の指摘は、この点では支持できます。
「京都の地子銭免除は本当か」 今回、これを裏づける史料や公的な解説は確認できませんでした。福知山市の公式サイトは「丹波の地を統治し、宅地税の一種である地子銭を免除するなど善政を布いた」と書いており[7]、これは本能寺の変より「前」の丹波領主時代の話です。変後11日間の実務の例としてそのまま使うのは危ういと考えます。
「なぜ三日なのか」 語呂がよいから、という説明は広く行われていますが、それを最初に述べた文献を今回は確認できませんでした。断定はできません。
図鑑の記述への提案
- 「語呂による江戸期以降の俗称」→「江戸期以降」を落とし、「後世の俗称で、初出史料は特定できていない」に。あわせて「江戸の『絵本太功記』は13段で6月1日〜13日を1日1段に描いており[4]、江戸の通り相場はむしろ十三日だった」と補うと、読者の誤解が減ります。
- 「11日間(数え方で12–13日)」→「11日間(両端とも数えれば12日、6月1日の出陣から数えれば13日)」と、数え方の中身まで書く。
- 「京都の地子銭免除」→出典を示せないなら削る。残すなら、福知山(丹波)の地子銭免除は変より前の統治期の話である[7]と区別して書く。
- 「朝廷への献金」→「6月9日に参内し、朝廷に銀500枚を献上」と具体化する[8]。
- 区分「諸説あり」は維持でよいと考えます。
図表
出典
- 信長公記(太田牛一著/甫喜山景雄編・明治14年刊本、ウィキソース)(巻十五(三十三)中将信忠卿二条にて歴〻御生害之事 末尾・六月二日辰刻の条)同時代にもっとも近い記録『信長公記』は天正10年6月2日の変の直後で記述が終わり、その後の11日間も山崎の戦いも「三日天下」の語も記していない。
「六月二日 辰刻 信長公御父子御一門歴〳〵討果し 明智日向申様に落人(オチウド)可有候間家〳〵を扒(サガ)せと申付諸卒洛中之町屋(チヤウヲク)に打入テ落人を扒(サガ)事目も当られす都の騒動不斜」
- 三日天下(コトバンク/四字熟語を知る辞典・デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典)(四字熟語を知る辞典「三日天下」の解説)辞典は「三日天下」を光秀由来の慣用句と説明するが、初出史料は示さず、由来の日数は「一三日」とし、挙げる使用例も太宰治(1948年)という近代のものである。
「きわめて短い間しか権力や地位を保てないこと。[使用例] 謀叛人も、賊軍も、よしんば勝ったところで、いわゆる三日天下であって、ついには滅亡するもののごとく、われわれは教えられてきているのである[太宰治*如是我聞|1948][解説] 明智光秀が織田信長を倒してからわずか一三日で羽柴秀吉に倒されたところからいいます。」
- 明智光秀(コトバンク/精選版 日本国語大辞典)(精選版 日本国語大辞典「あけち‐みつひで」)『精選版 日本国語大辞典』は本能寺の変から山崎の敗死までを「一一日後」とし、同じ辞典系列の「三日天下」項の「一三日」と食いちがっている。
「天正一〇年(一五八二)信長を本能寺に襲い自害させたが、一一日後、山城山崎で羽柴秀吉と戦って敗れ、小栗栖(おぐるす)で土民に殺された。」
- 絵本太功記(コトバンク/改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)(改訂新版 世界大百科事典「絵本太功記」(佐藤彰))江戸時代の代表的な光秀劇『絵本太功記』(1799年初演)は全13段で、6月1日から13日までを1日1段に構成しており、江戸期に流布した数え方は「三日」ではなく「十三日」であった。
「1799年(寛政11)7月12日から大坂若太夫芝居で初演。太閤記物(たいこうきもの)の代表作。1797年から1802年(享和2)にかけて出版された読本《絵本太閤記》などによって知られた秀吉一代記から,光秀の反逆を中心に脚色したもの。6月1日から13日までの物語を1日1段に構成した珍しい趣向。」
- 山崎の戦い(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「山崎の戦い」)山崎の戦いは天正10年6月13日に行われ、本能寺の変は同年6月2日であるから、両者のあいだは11日ないし12日である。
「天正 10 (1582) 年6月 13日に山城国乙訓郡大山崎村周辺で行われた豊臣秀吉と明智光秀の戦い。同年6月2日本能寺で織田信長が光秀の反逆にあって死ぬと,備中高松城を攻略中であった秀吉は,ただちに毛利氏と和し,中国在陣中の織田方の武将を率いて東上し,尼崎を経て同 12日天神馬場に着き」
- 原田真澄「太閤記物人形浄瑠璃作品に表われた謀叛人―『絵本太功記』の光秀を中心に―」『演劇学論集 日本演劇学会紀要』55巻、2012年、67-84頁(抄録(Abstract)冒頭/演劇学論集 55巻 2012年 p.67-84)『絵本太功記』の光秀像は「謀叛人」の造形として演劇研究の対象になっており、光秀像が江戸の太閤記物の中で形づくられたことを示す学術研究がある。
「One of the most major plays in the group is Ehon Taikoki (The Taiko's Exploit, first performed in 1799), a play based on a historical act of “treason” called the “Honnoji no hen” (“Honnoji Incident”), in which Akechi Mitsuhide (?-1582), one of the important fe」
- 知られざる「明智光秀」を訪ねて(福知山市オフィシャルホームページ)(03 城下町探索(御霊神社の項))自治体の公式解説が伝える光秀の地子銭免除は、丹波(福知山)を統治していた時期の善政としてのものであり、本能寺の変後の京都での施策としては書かれていない。
「丹波の地を統治し、宅地税の一種である地子銭を免除するなど善政を布いたことで領民から慕われた光秀は、本能寺の変の後、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗北。坂本城を目指して落ち延びる途中で落ち武者狩りで深手を負い落命する。」
- 明智光秀 - Wikipedia(補助)(本能寺の変・変後の動きの節)光秀は6月8日に安土を発ち、6月9日に参内して朝廷に銀500枚を献上し、京都五山・大徳寺・勅使の吉田兼見にも銀を贈っている。
「光秀はこの後、同年6月8日に安土を発って、同年6月9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、京都五山や大徳寺にも銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。」
- 山崎の戦い - Wikipedia(補助)(成句「三日天下」の節)「三日天下」は比喩であり、実際は天正10年6月2日から同月13日までの11日ないし12日間であること、また光秀の将軍宣下を記す『明智光秀公家譜覚書』の信憑性には疑問があることが整理されている。
「肥後細川家に伝わる『明智光秀公家譜覚書』には、本能寺の変後光秀が細川藤孝・忠興父子に味方になることを説得した書状が所収されており、その中で光秀は変の後参内し、従三位・中将に叙任された上で征夷大将軍の宣下を受けたと書かれている。この史料の信憑性には疑問の余地があるものの、変後の政局が光秀を中心として展開したことは間違いない。光秀の天下は「三日天下」と比喩されるが、実際には本能寺の変の天正10年6月2日から山崎の戦いの同月13日であり、11日ないし12日間の期間であった。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。