〈柴田勝家〉北ノ庄城は九層の天守を持つ巨城だった
「天守九重」の典拠は落城直後の秀吉書状だが、文字通り9階建てか高層の誇張表現かは不明。フロイスが城下の壮麗さと笏谷石葺きの屋根を記したことは確かだが、天守の正確な規模・位置は発掘でも未確定。「九層天守」は断定できない。
検証リサーチ
「〈柴田勝家〉北ノ庄城は九層の天守を持つ巨城だった」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「諸説あり」が妥当。落城直後の秀吉書状(『毛利家文書』)に「天守九重」とあるのは事実だが、9階建てか誇張かは不明で、発掘でも位置すら未特定。
くわしい根拠
結論
図鑑の区分「諸説あり」は妥当です。ただし「確かな部分」と「あやしい部分」を分けて書くと、もっと正確になります。確かなのは、勝家が自害した直後に、攻めた本人である秀吉が「天守を九重に上げていた」と書き残したことです[1]。あやしいのは、その「九重」が9階建てを指すのかどうかです[6]。当時の「重(じゅう)」は屋根の重なりの数え方で、内部の階数とは一致しません。現存最古とされる丸岡城の天守は二重三階[1][9]、後に同じ場所に建った福井城の天守でも外観四重内部五階でした[3]。9重は同時代の実例からとび抜けており、そのまま「9階建て」と読むのは危険です。
この話が最初に出てくる史料
初出は後世の軍記ではなく「同時代史料」(その時代に書かれた史料)です。天正11年(1583)4月の賤ヶ岳合戦のあと勝家を北ノ庄城に囲んだ秀吉が、毛利家の重臣・小早川隆景にあてた書状(『毛利家文書』所収)に、「石蔵(天守台)を高く築いた上に天守を九重に上げていた」と記されています[1]。この点は図鑑の記述どおりです。
ただし日付は注意が必要です。「天正11年4月25日付」とする紹介[6]と「同年5月15日付」とする紹介[7]があり、『福井県史』は日付を書いていません[1]。図鑑も「落城直後の秀吉書状」と幅をもたせておくのが安全です。
もう一つの同時代史料がイエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡です。フロイスは天正8年(1580)5月18日に北ノ庄城の勝家を訪ね、この城が「いま大きな工事をしている」ことを報告し、屋根がすべて立派な石で葺かれていることに強く印象づけられています[2]。裏を返せば、フロイスは屋根と町のようすは書いたが、天守が何階あるかは数えていません。
同時代の『信長公記』には、天正3年(1575)9月に信長自身が北庄で「城取御縄張」をして要害普請を命じた記事がありますが[4]、天守の記述はありません。
異説や否定説
- 誇張表現説。「九重」には「何段にも重なる」という意味もあり、文字どおりの9階と決めつけられない[6]。
- 史料の性格。この書状は敵将を討ち取った戦勝報告です。相手の城を大きく書くほど自分の手柄も大きく見えるので、数字はやや割り引いて読む必要があります。
- 層数そのものが揺れる。一般向けの解説でも「天守は7層(一説には9層)」と書かれ、7層説が並記されています[5]。
- 発掘では確かめられない。1993年(平成5)以来の調査で、本丸跡とされてきた柴田神社の境内から石垣らしい石は出ましたが、城の正確な位置さえ特定できていません[8]。天守台が見つかっていない以上、規模を実測で確かめる手段が今のところないのです。
後世にどう語られたか
「九重」の4文字は、そのまま「九層天守」「安土城に匹敵する巨城」という言い方に育っていきました[5]。現代の事典でも「9層の天守をもった巨大な城であったといわれている」と、伝聞のかたちで紹介されています(この事典は同時に、城の正確な位置が未特定であることも記しています)[8]。柴田神社の復元模型や観光解説でも高層の天守像が定着しています。
一方、専門的な記述はもっと慎重です。『福井県史』は「九重の天守をもつ勝家の北庄城の規模の大きさが推定されよう」と、大きさの目安としてのみ用い、9階建てとは言い切っていません[1]。
読者が次に抱く疑問
Q. なぜ秀吉が書いたのに信じきれないの? A. 「重」は屋根の数え方で階数と一致しないうえ、戦勝報告という文書の性格があるからです[6]。また、跡地に建った福井城の天守でさえ外観四重内部五階、天守台込みで高さ40mあまりでした[3]。
Q. 発掘で決着はつかないの? A. 江戸時代に福井城が同じ場所に築き直されたため柴田期の遺構が壊されており、本丸の位置も未確定です[8]。
Q. フロイスは何階と書いたの? A. 屋根の石葺きの美しさや工事中であることは書きましたが、天守の階数を数えた記述は確認できません[2]。
図鑑の記述への提案
- 典拠を具体名で書く。「落城直後の秀吉書状」→「『毛利家文書』所収の小早川隆景あて秀吉書状」。日付は4月25日説[6]と5月15日説[7]があるので断定しない。
- フロイスの記述は「天正8年(1580)5月18日の訪問時点ではまだ大工事中だった」と足すと、天正3年着工から数年がかりの城だったことが伝わります[2]。
- 比較の物差しを一文入れる。丸岡城の現存天守は二重三階[1][9]、後の福井城天守でも外観四重内部五階[3]。
- 結びを「九層天守は断定できない」から「同時代の秀吉書状に『天守九重』とあること自体は事実。ただし9階建てを意味するかは不明」に変えると、確かな部分と不確かな部分の切り分けが読者に伝わります。区分「諸説あり」は維持で問題ありません。
出典
- 『福井県史』通史編3 近世一 第一章第二節「北庄城の建設」(福井県文書館)(第一章 織豊期の越前・若狭/第二節 織田期の大名/二 越前国支配の様相/北庄城の建設)「天守九重」の典拠は賤ヶ岳合戦後に秀吉が記した『毛利家文書』所収の書状であり、県史は丸岡城の現存天守(二重三階)と比べて規模の大きさを推定するにとどめている。
「天正十一年四月の賎ケ嶽合戦のあと勝家を北庄城に囲んだ羽柴秀吉は、北庄城は勝家が数年をかけてこしらえた城であり、石蔵(天守台)を高く築いた上に天守を九重に上げていたと記している(『毛利家文書』)。同じく天正四年より建設されたと伝える坂井郡丸岡城の現存する天守が二重三階であることを考えると、九重の天守をもつ勝家の北庄城の規模の大きさが推定されよう。」
- 『福井県史』通史編3 近世一 第一章第二節「北庄城の建設」(福井県文書館)(同節 冒頭段落(フロイスの北庄訪問))フロイスは天正8年5月18日に北ノ庄城の勝家を訪ね、なお大工事中であることと石葺きの屋根の美しさを書き残したが、天守の階数は記していない。
「イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、布教のため天正八年五月十八日に北庄城の勝家を訪ねているが、立派なこの城はいま大きな工事をしていることを報じている(「ルイス・フロイス書簡」)。フロイスは城とその他の家の屋根がすべて立派な石で葺いてあることに強く印象付けられたようで、勝家の敗死を伝える後の書簡でも屋根の石ははなはだ滑らかで、轆轤にかけたように形が整えられていたと述べている。」
- 企画展示「福井城と諸国の城」(福井県文書館)(1. 福井城築城から寛文大火まで)勝家の北ノ庄城跡に結城秀康が築いた福井城の天守でも外観四重内部五階であり、天守台を含めた高さは40mあまりだった。
「慶長11年(1606)に完成した城は、外観四重内部五階の天守および10棟の櫓を備え、本丸を五重の堀が同心円状に取り囲む輪郭式の縄張(設計)を持つ巨大なものでした。」
- 『信長公記』巻八(七)越前御進発賀越両国被仰付之事(ウィキソース)(巻八(七)越前御進発賀越両国被仰付之事(九月二日条))同時代史料『信長公記』は天正3年9月に信長自身が北庄で城取(縄張)と要害普請を命じたことを記すが、北ノ庄城の天守の規模には触れていない。
「九月二日 豊原より北庄へ 信長被成御越城取御縄張されられ御要害被仰付北庄御普請場にて」
- 福井城(ウィキペディア日本語版)(柴田氏 北ノ庄城)一般向けの通説では層数が定まらず、「7層(一説には9層)」と並記されている。
「天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。」
- 福井城(ウィキペディア日本語版)(柴田氏 北ノ庄城(落城の記述))秀吉書状の日付を天正11年4月25日とする紹介があり、「九重」は「何段にも重なる」の意にも取れると注記されている。
「羽柴秀吉が戦後間もない1583年(天正11年)4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九重」であった旨の記述がある。(ただし九重には「何段にも重なる」という意味もある)」
- 柴田勝家(ウィキペディア日本語版)(生涯(勝家の最期/『毛利家文書』所収秀吉書状の引用))同じ『毛利家文書』所収の小早川隆景あて秀吉書状を天正11年5月15日付とする紹介もあり、そこでは勝家が天主の最上の九重目に登って自刃したと記される。
「天主の最上の九重目に登り上がり、総員に言葉をかけ、勝家が「修理の腹の切り様を見て後学にせよ」と声高く言うと、心ある侍は涙をこぼし鎧の袖を濡らし、皆が静まりかえる中、勝家は妻子などを一刺しで殺し、80人とともに切腹した。寅の下刻(午後5時)だった。 勝家は十字切りで切腹し(最も正式の切腹の作法)、侍臣の中村聞荷斎(文荷斎)を呼び介錯させた。これに殉死するもの80余人。聞荷斎はかねてから用意した火薬に火をつけ、天主とともに勝家の一類はことごとく亡くなった。 — 『毛利家文書』所収小早川隆景宛て天正11年(1583年)5月15日付秀吉書状」
- 北ノ庄城(講談社『日本の城がわかる事典』/コトバンク)(日本の城がわかる事典「北ノ庄城」)6次にわたる発掘調査でも柴田期の北ノ庄城の正確な位置は特定できておらず、事典も「9層の天守」を伝聞として紹介している。
「1993年(平成5)、6次にわたる発掘調査が行われ、北ノ庄城の本丸跡といわれてきた柴田神社の境内から石垣と思われる石が出土したが、城の正確な位置も特定できていない。」
- 歴史|丸岡城(公式サイト)(歴史 冒頭)北ノ庄城とほぼ同時期に、勝家の甥・勝豊が築いた丸岡城には天守が現存し、規模比較の物差しになる。
「丸岡城が築かれたのは戦国時代。 一向一揆への備えとして織田信長の命により、 柴田勝家の甥の勝豊が築いたとされています。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。