〈柴田勝家〉「かかれ柴田」の異名
「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」の俗謡の出典は江戸中期の随筆『翁草』などで、信長在世当時に歌われていたかは確認できない。ただし勝家が織田軍団屈指の猛将だったこと自体は、先鋒・平定戦での起用実績から妥当な評価である。
検証リサーチ
「〈柴田勝家〉「かかれ柴田」の異名」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
「かかれ柴田」の俗謡は江戸時代の随筆『翁草』が定番の出典で、同時代史料には見えない後世の評。ただし猛将ぶり自体は『信長公記』で裏づく。
くわしい根拠
結論
「かかれ柴田」という異名(あだ名)は、同時代の史料では確認できません。この言葉を含む俗謡(はやり歌)「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」の出所として今もふつうに挙げられるのは、江戸時代の随筆『翁草(おきなぐさ)』です [5][6]。『翁草』は京都町奉行所の与力だった神沢杜口(かんざわとこう)が寛政3年(1791年)にまとめた200巻の本で、信長が死んでから200年以上あとの本です [8]。
いっぽう「勝家は突撃役の猛将だった」という中身のほうは、同時代の記録『信長公記』で裏づけがとれます [1]。つまり 評価の中身は妥当だが、異名そのものは後世の言い回し です。図鑑の「諸説あり」という区分は妥当ですが、「歌がいつ歌われたか」と「勝家が猛将だったか」は別の問題として分けて書くと、読者が混乱しません。
この話が最初に出てくる史料
『翁草』は、著者が自分で見聞きしたことに加え、いろいろな本や記録を書き写して集めた本です [8]。ですから杜口が何かを引き写した可能性もあり、「『翁草』が正真正銘の初出」とまでは言い切れません。私は今回、『翁草』の原文そのものには当たれませんでした。正確に言うなら「今たどれるいちばん古い出所として通常示されるのが『翁草』」です。
さらに、200巻すべてが活字になったのは明治38〜39年(1905〜1906年)です [9]。それ以前は抜き書きの5巻本などが読まれていた程度で、この俗謡が広く知られるようになったのは近代以降とみるのが自然です。
そして、同時代の史料には出てきません。信長の側近くにいた太田牛一が書いた『信長公記』は、全16巻を通して「かかれ」「木綿」「鬼柴田」「瓶割」のいずれの語も使いません(確認方法は末尾の method_note に書きました)。賤ヶ岳の戦いの直後に秀吉方の大村由己が書いた『柴田退治記』(天正11年=1583年)も、勝家を「柴田勝家」「柴田修理亮」と実名で書くだけで、異名は一度も使っていません [4]。勝家をよく知る立場の人たちが、あだ名をまったく使っていないわけです。
異説や否定説
第一に、「掛かれ=勝家/退き=佐久間」という役割分担が史料と合いません。元亀元年(1570年)9月23日、野田・福島からの撤退で殿(しんがり=最後尾を守る役)を命じられたのは、和田伊賀守と柴田修理亮=勝家の2人でした [2]。勝家も「退き」役をしています。
第二に、佐久間信盛は天正8年(1580年)に信長の折檻状(せっかんじょう=叱責の書状)で追放され、信長自身が「無比類働と申鳴し候儀一度も有之ましき事」(比べるもののない働きをしたと評判になったことは一度もない)と書いています [3]。4人を仲良く並べて誉める俗謡の構図は、信長生前の評価そのままではありません。
第三に、「鬼柴田」「瓶割り柴田」も同じく後世の呼び名です。日本大百科全書は瓶割りの逸話を「勇名を得たという」と伝聞の形で書いています [7]。『信長公記』は、勝家が長光寺城に在城したことも、元亀元年6月4日に落窪で六角勢を切り崩したことも記しますが、水瓶を割った話は記しません [1]。
後世にどう語られたか
江戸時代の随筆や軍記のなかで、織田家の重臣を語呂よく4人並べる型(かた)ができました。木綿(もめん)は地味だが毎日使える、米は上下だれにも欠かせない、という言い換えで秀吉と丹羽長秀を評し、そのうしろに勝家と佐久間信盛を対にして置く構成です [5]。この型は覚えやすく、明治の活字化 [9] を経て、伝記や小説・事典に広まりました。表記も一定せず、「掛かれ柴田」[5] と「かかれ柴田」[6] が併存しています。歌そのものが史実というより、織田家臣団を4人で説明するための便利な要約として生き延びた、と見るのが素直です。
読者が次に抱く疑問
Q1. 勝家本人は「かかれ柴田」と名乗ったの? いいえ。同時代の記録では「柴田修理亮」「柴田権六」「柴田勝家」と呼ばれるだけで、異名の使用例は確認できません [1][4]。
Q2. では勝家は本当に強かったの? 強かったと言えます。元亀元年6月4日、勝家は佐久間信盛とともに六角承禎の軍に向かい、落窪で切り崩して780の首を取ったと『信長公記』にあります [1]。
Q3. 4人が同時に並んでいた期間は? 佐久間信盛は天正8年に追放されており [3]、4人が信長の下にそろうのは実質そこまでです。俗謡は時期をまたいだ後知恵の整理とみるのが自然です。
図鑑の記述への提案
- 「出典は江戸中期の随筆『翁草』など」→「『翁草』(寛政3年=1791年成立)などの江戸時代の随筆に載るのが今たどれる古い例で、初出かどうかは確定していない」と、断定を弱めることを提案します [8]。
- 『翁草』の時代区分は事典により「江戸後期」とするものもあります [8]。「江戸時代後期(1791年成立)」の表記が無難です。
- 俗謡の一般的な表記は「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」です [5]。表記ゆれがある旨を一言添えると親切です。
- 追記の提案:「勝家は元亀元年の野田・福島撤退では殿も務めており [2]、『掛かれ=勝家/退き=佐久間』という分担は実態を単純化した言い回しである」。
- 区分は「諸説あり」のままで妥当ですが、本文の冒頭に「異名は後世の評であり、同時代史料には見えない」と明示することを提案します。
出典
- 太田牛一『信長公記』巻三(元亀元年)落窪合戦之事(ウィキソース、甫喜山景雄刊本)(巻之三(六)落窪合戦之事)同時代史料『信長公記』は勝家を先手として実戦に投入し大勝したことを記すが、異名も瓶割りの逸話も記さない。
「六月四日 佐々木承禎父子 江州南郡所々催一揆野洲川表へ人数を出し 柴田修理 佐久間右衛門懸向やす川にて足軽に引付落窪の郷にて取合及一戦切崩 討取頸之注文 三雲父子 高野瀬 水原 伊賀甲賀衆究竟之侍七百八十討とり江州過半相静り」
- 太田牛一『信長公記』巻三(元亀元年)志賀御陣之事(ウィキソース、甫喜山景雄刊本)(巻之三(九)野田福島御陣之事)元亀元年9月23日の野田・福島撤退で殿を命じられたのは和田伊賀守と柴田勝家であり、勝家も撤退戦の役目を担っている。
「九月廿三日 野田福島御引払 和田伊賀守柴田修理亮両人殿に被仰付」
- 太田牛一『信長公記』巻十三(天正八年)佐久間折檻状(ウィキソース、甫喜山景雄刊本)(巻之十三(十一)佐久間林佐渡丹羽右近伊賀〻〻守事)信長は天正8年の折檻状で佐久間信盛の働きを否定して追放しており、俗謡が4人を並べて誉める構図は信長生前の評価と一致しない。
「一信長代になり三十年遂奉公之内に佐久間右衛門無比類働と申鳴し候儀一度も有之ましき事」
- 大村由己『柴田退治記』(続群書類従 巻第五百八十七、ウィキソース)(天正十一年卯月の記事)賤ヶ岳直後の天正11年に秀吉方で書かれた同時代の記録でも、勝家は実名で書かれるだけで異名は使われていない。
「然柴田勝家者。信孝御謀叛得力。可取天下事勿論也。旧冬勝家一味之時。不奉成救。無念今此刻急度可及一戦。」
- 丹羽長秀 - Wikipedia(人物・逸話の節)俗謡の一般的な文言は「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」で、出典として『翁草』が示される。
「織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があった(『翁草』)。」
- 柴田勝家 - Wikipedia(人物・逸話の節)「かかれ柴田」は江戸中期の随筆『翁草』の小唄の一節にもとづく評価として説明されている。
「武骨の性格で、その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、江戸中期の随筆『翁草』の小唄の1節に秀吉らとともに、勝家は戦場における突進力では随一という意味でかかれ柴田と評されている」
- 柴田勝家とは(日本大百科全書〈ニッポニカ〉、奥野高広執筆)|コトバンク(日本大百科全書(ニッポニカ)の項)「瓶割り柴田」の由来譚は事典でも「勇名を得たという」と伝聞の形で記され、確定した事実としては扱われていない。
「1570年(元亀1)6月、近江(おうみ)(滋賀県)長光寺(ちょうこうじ)城を守っているとき、六角承禎(ろっかくしょうてい)のため飲料水攻めになるが、水瓶(みずがめ)を破り出撃して勝ち、瓶割り柴田の勇名を得たという。」
- 翁草とは(改訂新版 世界大百科事典、宗政五十緒執筆)|コトバンク(改訂新版 世界大百科事典の項)『翁草』は神沢杜口が1791年(寛政3)に成立させた200巻の随筆で、諸書・諸記録の抄録と自身の見聞からなる。
「江戸後期の随筆。神沢杜口(かんざわとこう)著。1791年(寛政3)成立。200巻。別に抄出刊本5巻,異本200巻がある。諸書,諸記録を抄録し,また,自己の見聞を記して一書としたもの。」
- 翁草(神澤貞幹編・池邊義象校、1905-1906)|国立国会図書館サーチ(書誌情報(出版年月日等))『翁草』200巻の活字本が刊行されたのは明治38〜39年で、俗謡が広く読まれるようになったのは近代以降と考えられる。
「著者神澤貞幹(社口)編 ; 池邊義象校出版者-出版年1905(明治38)・1906(明治39)資料形態紙」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。