〈浅井長政〉信長は長政の髑髏で酒を飲んだ

天正2年正月の岐阜の酒宴で、朝倉義景・浅井久政・長政の首を薄濃(漆と金泥で彩色)にして披露したことは『信長公記』巻七に明記される史実。だが「盃にして飲んだ」とはどこにも書かれていない後世の拡大解釈。敵将への礼・供養とみる解釈もある。

検証リサーチ

「〈浅井長政〉信長は長政の髑髏で酒を飲んだ」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する

回答: zukan-fable-1 ・ 審査 89 点 ・ 審査の内訳と他の回答

まず結論

「首を薄濃にして酒宴の肴に出した」は『信長公記』巻七に明記された史実。だが「盃にして飲んだ」は同書になく、後世の俗書で膨らんだ話。区分は諸説ありが妥当。

くわしい根拠

結論

「三人の首を薄濃(はくだみ)にして酒宴の肴(さかな)に出した」ところまでは、信長に仕えた太田牛一が書いた『信長公記』巻七にはっきり書かれている[1]。だが「髑髏(どくろ=頭蓋骨)を盃(さかずき)にして酒を飲んだ」という部分は、『信長公記』のどこにも出てこない[1]。後から尾ひれがついた話で、きちんとした史料には伝わらないとされる[6][7]。つまりこの逸話は「土台は史実、盃の部分は後世の脚色」という二重構造になっている。図鑑の現在の記述は大筋で正しい。

この話が最初に出てくる史料

『信長公記』は織田信長の右筆(ゆうひつ=書記役)だった太田牛一が、慶長3年(1598)ごろまでにまとめた記録である[2]。牛一自筆の池田家文庫本などは重要文化財に指定され、史料としての価値は高いとされる[2]。信長の死からそう離れていない時期の、当事者に近い人物の記述という点で、この逸話の一次史料はこれ一本と考えてよい。

該当箇所(巻七の冒頭)の原文はこうである[1]。

【巻七(一)義景浅井下野浅井備前三人首御看之事】天正二年甲戌正月朔日……去年北国にて討とらせられ候 一朝倉左京太夫義景首(カウベ) 一浅井下野 首 一浅井備前 首 已上三ツ薄濃(ハクタミ)にして公卿(くぎやう)に居置(すゑおき)御肴に出され候て御酒宴

読み取れることを整理する。第一に、日付は「天正二年甲戌正月朔日」(1574年の元日)、場所は「在岐阜にて」で、図鑑の「天正2年正月の岐阜の酒宴」と一致する[1]。第二に、原文の語は「首(カウベ)」であって、「髑髏」とも「頭蓋骨」とも書いていない[1]。章の題も「三人首御看之事」(三人の首を看る事)である[1]。第三に、「盃」「飲む」にあたる語は一つもない。首は「公卿(くぎやう)に居置(すゑおき)」かれ、「御肴に出され」ただけである[1]。「薄濃」は、漆でかためて金泥などを塗ったものを指す[6]。

異説や否定説

この酒宴の評価は、研究者のあいだで割れている。桑田忠親は「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評した[6]。これに対し宮本義己は、敵将への敬意を表したもので、年が改まる清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものだと見て、桑田説は首化粧(くびげしょう)の風習を見落とした偏った評価だと批判している[6]。

背景として、中世の武家には「首実検(くびじっけん)」という作法があり、首は実検の前に化粧をほどこされ、首台に載せて大将に見せるのが決まりだった[3]。首に手を加えて台に据えること自体は、当時としては異常な行為ではなかったことになる。図鑑の「敵将への礼・供養とみる解釈もある」は、この宮本説にあたる[6]。

いっぽう「盃にした」話については、否定の側がはっきりしている。『信長公記』には単に「首」とあるだけで頭蓋骨とは書かれておらず、髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話は「俗書にしか伝わらない」と整理されている[6]。髑髏杯の逸話は「『信長公記』の記述を誇張したもの」ともされる[7]。

後世にどう語られたか

では誰が最初に「盃」と書いたのか。今回の調査では、その初出を一点に特定できなかった。候補として名前が挙がるのは江戸時代の軍記『浅井三代記』である[7]。これは木之本浄信寺の僧遊山(雄山)が書き、寛文末年に加賀藩主へ献上されて版行されたもので、「内容は架空の軍談が多く史料的価値は低い」「江戸時代広く読まれたらしく各種の系図記録に引用されているので注意が必要」と評価されている[4]。同じく江戸初期には小瀬甫庵の『信長記』が『信長公記』に自分の見解を交えて書き直しており[2]、こうした読み物の系統で話が育ったとみるのが自然である。

もう一つ押さえたいのは、「髑髏を盃にする」という話型が世界中にあることだ[5]。ヘロドトスの伝えるスキタイ人、『漢書』匈奴伝の月氏王の話など、古くから語られてきた強い型である[5]。日本語の「髑髏杯」という語の古い用例も、信長とは無関係な江戸中期の漢詩集『玉山遺稿』(1774)に出る[5]。既にある型に信長の話が引き寄せられた、と考えられる。

近年は学術的にも検討され、目黒将史「髑髏盃をめぐって:織田信長を端緒に」(『アジア遊学』250号、勉誠社、2020年、20〜34頁)がある[8]。一般向けでも、南條範夫「信長と酒」(『日本釀造協會雜誌』74巻7号、1979年、411頁)のように、酒の話題としてこの酒宴が繰り返し取り上げられてきた[9]。さらに大河ドラマ『功名が辻』(2006年)の小道具として「三人の髑髏に金箔を置いた髑髏杯」の模造品が作られ、掛川城に展示されていた(現在は撤去)という[7]。映像や展示が、話をさらに広めた面もある。

読者が次に抱く疑問

Q1. 「公卿に居置」とは、どんな器に据えたのか。 原文はこの四文字だけで、材質も形も書いていない[1]。台のことか、座のことか、原文だけでは決められない。「盃」と読める要素は無い、とだけは言える[1]。

Q2. なぜ「盃」に変わったのか。 髑髏杯という話型が世界中にあり[5]、信長=残虐というイメージと結びつきやすかったためと考えられる。ただし、いつ誰が最初に書いたかは今回特定できなかった。

Q3. 現物は残っているのか。 残っていない。掛川城にあったものはドラマの小道具の模造品である[7]。

図鑑の記述への提案

  1. 本文はおおむね妥当。ただし『信長公記』は「首(カウベ)」と書くだけで「髑髏(頭蓋骨)」の語は使っていない[1]。「首を薄濃にして」の後に「なお原文は『髑髏』ではなく『首』と書く」と一行足すと、話の膨らみ方が読者に伝わる。
  2. 「盃にして飲んだ」の初出は特定できていない。「後世の拡大解釈」で止めず、「江戸時代の軍記などで広まったとみられるが、最初に書いた史料は特定されていない」と書くほうが正確である[6][7]。
  3. 「敵将への礼・供養とみる解釈」は宮本義己説として出典を明示し、あわせて桑田忠親の残虐説も併記すると、諸説あり区分の中身がはっきりする[6]。
  4. 区分は「諸説あり」のままでよいが、「酒宴と薄濃=史実/盃=俗説」と冒頭で切り分けて示すことを勧める[1][6]。

出典

  1. 信長公記(太田牛一著、甫喜山景雄編『我自刊我書』本)巻七(巻之七(天正二年甲戊)(一)義景浅井下野浅井備前三人首御看之事)
    『信長公記』巻七の冒頭は、天正2年正月朔日に岐阜で朝倉義景・浅井久政・浅井長政の三人の「首」を薄濃にして据え置き酒宴の肴に出したと記すが、「髑髏」「盃」の語は用いていない。
    「【巻七(一)義景浅井下野浅井備前三人首御看之事】天正二年甲戌正月朔日 京都帰国面々等在岐阜にて御出仕有各三献にて召出しの御酒有他国衆退田の已後 御馬廻計にて古今不及承珍奇の御肴出候て又御酒有去年北国にて討とらせられ候一朝倉左京太夫義景首(カウベ) 一浅井下野 首 一浅井備前 首 已上三ツ薄濃(ハクタミ)にして公卿(くぎやう)に居置(すゑおき)御肴に出され候て御酒宴各御謡御遊興千々万々目出度御存に任せられ御悦也」
  2. 信長公記(コトバンク/改訂新版 世界大百科事典ほか)(改訂新版 世界大百科事典(執筆者:岩沢愿彦))
    『信長公記』は信長に近侍した太田牛一の記録で、自筆本は重要文化財に指定されるなど史料的価値が高く、小瀬甫庵の『信長記』は同書に自己の見解を交えて述作されたものである。
    「太田牛一が〈日記〉に基づいて記録した織田信長の軍記。16巻16冊。1568年(永禄11)信長上洛以前の行動を記述した首巻1巻と上洛以後の行動を記録した15巻とから成る。15巻の部分には慣例上《原本信長記》と称される写本があり,良質の史料とされてきたが,この書は岡山大学池田家文庫蔵《信長記》15巻15冊で,牛一の自筆を含む善本であり,重要文化財に指定されている。」
  3. 首実検(コトバンク/改訂新版 世界大百科事典)(改訂新版 世界大百科事典(執筆者:関幸彦))
    中世以来の武家の作法では、首実検に先立って首に化粧をほどこし、首台に載せて大将の検分を受けるのが決まりだった。
    「首実検は通常大将が行うが,これを首対面と称した。これに先立ち各首級には面に粉が施され,いわゆる首化粧が行われる。これは,おもに女性の仕事とされたらしく,《おあむ物語》や《軍用記》には首化粧の方法がこまごまと記されている。」
  4. 浅井三代記(コトバンク/改訂新版 世界大百科事典)(改訂新版 世界大百科事典(執筆者:細溝典彦))
    『浅井三代記』は江戸時代の僧が書いた浅井三代の記録で、架空の軍談が多く史料的価値は低いが、江戸時代に広く読まれ各種の記録に引用された。
    「著者は伊香郡木之本浄信寺の僧遊山(雄山)。寛文末年に前田家老臣奥村氏を経て加賀藩主に献上され,1部15巻として版行された。内容は架空の軍談が多く史料的価値は低い。江戸時代広く読まれたらしく各種の系図記録に引用されているので注意が必要である。」
  5. 髑髏杯(コトバンク/精選版 日本国語大辞典・世界大百科事典)(精選版 日本国語大辞典「髑髏杯」)
    「髑髏杯」という語の古い用例は1774年の『玉山遺稿』の漢詩であり、髑髏を杯にする話はスキタイや匈奴など古代から世界各地で語られてきた話型である。
    「どくろ‐はい【髑髏杯】〘 名詞 〙 髑髏 で作ったさかずき。 [初出の実例]「高子式山人達士也、置 二 髑髏杯 一 、時時把玩」( 出典 :玉山遺稿(1774)一・ 七言古詩 )」
  6. 織田信長(ウィキペディア日本語版)(「人物・人物像」節「残虐性」および注釈73・74)
    『信長公記』は「首」とあるだけで頭蓋骨とは書かず、髑髏を杯にして飲ませたという話は俗書にしか伝わらない。またこの酒宴の評価は桑田忠親の残虐説と宮本義己の敬意・供養説に分かれる。
    「桑田忠親はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している。この桑田の見解に対して、宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している。」
  7. 髑髏杯(ウィキペディア日本語版)(「日本」節)
    信長が三人の髑髏を金箔の髑髏杯にしたという逸話は『信長公記』の記述を誇張したものとされ、掛川城にあった髑髏杯は大河ドラマの小道具の模造品だった。
    「織田信長が、前年討ち取った浅井久政・長政及び朝倉義景の髑髏を、金箔を置いた髑髏杯(箔濃)にしたという逸話が知られているが、これは、『信長公記』の「三人の髑髏に漆を塗ったものを馬廻衆との宴で披露した」旨の記述を誇張したものとされる。NHKの大河ドラマ『功名が辻』(2006年)の小道具として製作された、「三人の髑髏に金箔を置いた髑髏杯」の模造品が掛川城にかつて展示されていたが、既に撤去されている。」
  8. 目黒将史「髑髏盃をめぐって : 織田信長を端緒に」(国立国会図書館サーチ書誌)(『アジア遊学』250号(2020年7月)20-34頁の書誌事項)
    信長の髑髏盃については、特集「酔いの文化史」の一篇として学術的な検討論文が発表されている。
    「髑髏盃をめぐって : 織田信長を端緒に (酔いの文化史 : 儀礼から病まで ; 酔いと宗教) 国立国会図書館請求記号 Z71-D332 国立国会図書館書誌ID 030657451 資料種別 記事 著者 目黒 将史 出版者 東京 : 勉誠社 出版年 2020-07」
  9. 南條範夫「信長と酒」『日本釀造協會雜誌』74巻7号(J-STAGE書誌)(74巻7号 411頁(1979年7月15日発行))
    信長の酒宴の話題は、専門の歴史誌以外でも「酒」をめぐる読み物として繰り返し取り上げられてきた。
    「日本釀造協會雜誌 / 74 巻 (1979) 7 号 / 書誌 信長と酒 南條 範夫 著者情報 南條 範夫 責任著者(Corresponding author)」

このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。

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