〈島津義弘〉家康は「鬼島津」を恐れて処罰できなかった
慶長7年(1602)の本領安堵は史実で、西軍主力で唯一無傷の家となった。ただし「武勇を恐れた」だけでは説明できない。(1)「西軍参加は義弘個人の行動で当主義久は敵対していない」という整理が可能だった(両殿体制が交渉カードになった)、(2)武装を解かない「武備恭順」と遠国薩摩への征討コスト、(3)義久・忠恒による約2年の粘り強い外交——の複合要因とみるのが近年の研究である。
慶長7年(1602)の本領安堵は史実で、西軍主力で唯一無傷の家となった。ただし「武勇を恐れた」だけでは説明できない。(1)「西軍参加は義弘個人の行動で当主義久は敵対していない」という整理が可能だった(両殿体制が交渉カードになった)、(2)武装を解かない「武備恭順」と遠国薩摩への征討コスト、(3)義久・忠恒による約2年の粘り強い外交——の複合要因とみるのが近年の研究である。