〈伊達政宗〉「伊達者」の語源になった
『伊達治家記録』に、文禄の役の名護屋行軍で伊達勢の軍装が豪華絢爛で京童が「伊達者」と言い習わしたという記事がある。ただし国語学的には「だて(立て)」由来説もあり、政宗起源説は伊達家側の記録による一説にとどまる。
検証リサーチ
「〈伊達政宗〉「伊達者」の語源になった」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
伝説寄り。「だて」は政宗誕生(1567年)より前、1544年ごろの『多胡辰敬家訓』に既出。政宗起源説は元禄16年成立の伊達家正史に拠る民間語源で、区分は「伝説」が妥当。
くわしい根拠
結論
「伊達政宗のはでな軍装から『伊達者(だてもの)』という言葉が生まれた」という話は、史実とは言えません。区分は「諸説あり」より「伝説(俗説・民間語源)」が適切です。理由は単純で、政宗が生まれる前から「だて」という言葉が使われていたからです。『精選版日本国語大辞典』は「だて」のいちばん古い用例として、天文13年(1544年)ごろに成立した『多胡辰敬家訓(たごときたかかくん)』をあげています[2]。多胡辰敬は石見国(いまの島根県西部)岩山城主で、1494年から1562年の人です[5]。いっぽう政宗の生年は1567年です[7]。つまり「だて」の初出は政宗の誕生より20年以上早く、しかも書いた人は伊達家とまったく関係のない西日本の武士でした。
国語辞典もこの話を「語源の一説」としか扱っていません。『デジタル大辞泉』は補説で二説を並べ、「人目につくようにする意の『立つ』の連用形『立て』からとも、伊達政宗の家来がはでな服装であったからともいう」と書いています[1]。
この話が最初に出てくる史料
図鑑があげる『伊達治家記録』は、同時代の記録ではありません。これは仙台藩4代藩主・伊達綱村のときにつくられた伊達家の正史で、政宗までの四代分(性山公貞山公義山公雄山公御四代治家記録、六三巻)は田辺希賢(たなべまれかた)らの編で元禄16年(1703年)成立です[6]。文禄の役(1592〜93年)からおよそ110年後の編纂物(へんさんぶつ=あとからまとめた本)にあたります。家の由緒を語る立場で書かれた記録ですから、そこに「京童が伊達者と言い習わした」とあっても、それは語源の証拠ではなく、伊達家側の伝承として扱うべきです。
ただし今回、『伊達治家記録』の当該記事そのものは確認できませんでした。活字本は昭和47〜57年刊の宝文堂版で[6]、ネット上に本文が公開されていないためです。したがって「その記事が本当にあるのか」「どんな文言か」は、この回答では裏づけが取れていません。図鑑がこの点を出典として示すなら、巻名と年次の明示が必要です。
いっぽう、政宗の軍装が評判になったという逸話自体は広く流布しています。ウィキペディアは「従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった」と記し、そこから「伊達者」の語が生まれたと**「伝えられる」**という形で紹介しています[9]。断定ではありません。
異説や否定説
言葉の側から見ると、否定説のほうが強いです。
(1)「立て」由来説。 『精選版日本国語大辞典』は補助注記で、「『いかにも…らしい様子を見せる、ことさらにそのような様子をする』意の接尾語『だて(立)』が、室町末期ごろより名詞また形容動詞として独立したものか」としています[3]。「男立て」「心立て」の「だて」がひとり立ちした、という見方です。「伊達」の字はあとから当てた当て字ということになります。
(2) 広まりが早すぎる。 「だてもの」は江戸初期の軍記『甲陽軍鑑』品四〇に「二番にだてものと云も、武道の役にたつ人にて候」と出ます。同じ辞典は宣教師ロドリゲスの『日本大文典』(1604〜08年)もあげています[4]。武田家を語る書物や、ポルトガル人がつくった日本語文法書にまで載るほど、政宗の存命中にすでに全国共通の一般語でした。文禄の役から10年ほどで西日本にまで定着した、と考えるより、もとから広く使われていた語だと考えるほうが自然です。
(3) 初出の担い手が無関係。 『多胡辰敬家訓』は全17条の家訓で、若い武士に手習い・学問・諸芸・礼儀作法を説いたものです[5]。戦国期の倫理思想を示す資料として学術的にも検討されています(筧泰彦「多胡辰敬家訓考 : 戰國時代倫理思想の一文獻」学習院大学『研究年報』1、1953年、85〜143頁)[8]。伊達家とも東北ともつながりがありません。
後世にどう語られたか
政宗のイメージは、江戸後期から近代にかけて大きくふくらみました。たとえば有名な「独眼竜」というあだ名も政宗自身が名乗ったものではなく、江戸時代後期の儒学者・頼山陽(らいさんよう)の漢詩にさかのぼるとされます[9]。「伊達者=政宗起源」という説明も、同じようにわかりやすい物語としてあとから結びつけられた可能性が高いと考えられます。伊達という有名な名字と「だて」という語がたまたま同じ音だったことが、その結びつきを強めました。
読者が次に抱く疑問
Q1. では政宗の軍装がはでだったこと自体はウソ? そこまでは否定できません。ただし今回確認できたのは「噂となった」「伝えられる」という形の記述までです[9]。年次にもずれがあります。図鑑は「文禄の役の名護屋行軍」としますが、ウィキペディアはこの装束の話を文禄2年(1593年)の従軍の項に置いています[9]。どちらが正しいかは『伊達治家記録』の原文確認が要ります。
Q2.「伊達」と書くようになったのはいつ? 辞書は語を「だて」の仮名で立て、「伊達」を当て字として扱っています[1][3]。江戸前期にはすでに「伊達」表記の用例が見えますが、いつ定着したかは今回の出典では確定できませんでした。
Q3. 伊達家側はこの説を否定していないの? 『伊達治家記録』は伊達家自身の正史です[6]。むしろこの説を書き残した側にあたります。だからこそ、家の記録を語源の証拠として使うことはできません。
図鑑の記述への提案
- 区分を「諸説あり」から「伝説(俗説)」に変更することを提案します。「だて」の初出(1544年ごろ)が政宗の生年(1567年)より前で[2][5][7]、その著者が伊達家と無縁の石見の武士である以上、二説を対等に並べるのは実態と合いません。
- 本文に「『伊達治家記録』は元禄16年(1703年)成立の伊達家の正史で、文禄の役から約110年後の編纂物」という一文を加えることを提案します[6]。同時代史料でないことが読者に伝わります。
- 「国語学的には『だて(立て)』由来説もある」は、**「国語辞典は『立て』由来説を主に採り、政宗説は補説での並記にとどまる」**と書き換えるほうが実態に合います[1][3]。
- 「京童が『伊達者』と言い習わした」という記事の所在(巻名・年次)を明示できるとより確実です。今回は本文を確認できませんでした。
出典
- 伊達(デジタル大辞泉「だて【伊達】」補説) - コトバンク(デジタル大辞泉「だて【伊達】」[補説])国語辞典は「だて」の語源として「立て」由来説と伊達政宗由来説の二つを並記し、政宗説を確定した語源としていない。
「人目につくようにする意の「立つ」の連用形「立て」からとも、伊達政宗の家来がはでな服装であったからともいう。」
- 伊達(精選版日本国語大辞典「だて【伊達】」初出の実例) - コトバンク(精選版日本国語大辞典「だて【伊達】」①初出の実例)「だて」の最古の用例は天文13年(1544年)ごろ成立の『多胡辰敬家訓』であり、伊達政宗の生年(1567年)より前にさかのぼる。
「[初出の実例]「うろんなる人の用に立、だてをし、さぎをからすとあらがひ」(出典:多胡辰敬家訓(1544頃))」
- 伊達(精選版日本国語大辞典「だて【伊達】」補助注記) - コトバンク(精選版日本国語大辞典「だて【伊達】」補助注記)精選版日本国語大辞典は「だて」を接尾語「だて(立)」が室町末期ごろに独立した語とみており、伊達政宗起源説を採らない。
「伊達の補助注記「いかにも…らしい様子を見せる、ことさらにそのような様子をする」意の接尾語「だて(立)」が、室町末期ごろより名詞また形容動詞として独立したものか。」
- 伊達者(精選版日本国語大辞典「だてもの」) - コトバンク(精選版日本国語大辞典「だて‐もの【伊達者】」)「だてもの」は江戸初期の『甲陽軍鑑』やロドリゲス『日本大文典』(1604〜08年)に用例があり、政宗の存命中すでに全国的な一般語だった。
「〘 名詞 〙 =だてしゃ(伊達者)〔ロドリゲス日本大文典(1604‐08)〕[初出の実例]「二番にだてものと云も、武道の役にたつ人にて候」(出典:甲陽軍鑑(17C初)品四〇)」
- 多胡辰敬家訓(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典) - コトバンク(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「多胡辰敬家訓」)『多胡辰敬家訓』は石見国岩山城主・多胡辰敬(1494〜1562)が天文13年(1544年)ごろに著した全17条の家訓で、伊達家とは無関係の西日本の武士による著作である。
「石見国岩山城主,多胡辰敬 (1494~1562) が若年の武士のために,手習い,学問や諸芸,礼儀作法,人間関係などについてみずからの体験から教えさとそうとした家訓書。全編 17条。天文 13 (44) 年頃成立。」
- 伊達治家記録(日本歴史地名大系) - コトバンク(平凡社『日本歴史地名大系』「伊達治家記録」解説)政宗を含む四代分の『治家記録』は田辺希賢らの編で元禄16年(1703年)成立の伊達家の正史であり、文禄の役から約110年後の編纂物である。
「性山公貞山公義山公雄山公御四代治家記録六三巻 田辺希賢ほか編 元禄一六年成立 原本 仙台市博物館・宮城県図書館」
- 伊達政宗(デジタル大辞泉) - コトバンク(デジタル大辞泉「だて‐まさむね【伊達政宗】」)伊達政宗の生没年は1567年から1636年であり、「だて」の初出(1544年ごろ)より後に生まれている。
「[1567~1636]安土桃山時代から江戸初期にかけての武将。出羽の人。畠山・蘆名氏を倒して奥州を制覇。のち、豊臣秀吉に仕えて朝鮮に出陣。」
- 多胡辰敬家訓考 : 戰國時代倫理思想の一文獻(筧泰彦、学習院大学『研究年報』1、1953年) - NDLサーチ(国立国会図書館サーチ 書誌詳細(記事))『多胡辰敬家訓』は戦国時代の倫理思想を示す文献として学術的な検討対象となっており、筧泰彦による研究が1953年に学習院大学『研究年報』第1輯85〜143頁に発表されている。
「著者筧 泰彦出版者学習院大学出版年1953資料形態紙掲載誌名研究年報 1掲載ページp.85-143」
- 伊達政宗 - Wikipedia(「生涯」>「小田原合戦と豊臣政権下」節(および「人物・逸話」>「独眼竜」の由来節))政宗の絢爛な戦装束が上洛道中で噂になったという逸話は文禄2年(1593年)の従軍の項に置かれ、「伊達者」の語源とする点は「伝えられる」という伝聞の形で記されている。また「独眼竜」の呼称も江戸後期の頼山陽の漢詩にさかのぼるとされる。
「従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。