〈伊達政宗〉料理好きで「馳走とは主人自ら調理してもてなすこと」と語った
食への強い関心、献立を自ら考え客のもてなしに凝ったことは自筆書簡から裏付けられる(佐藤憲一氏)。ただし名文句そのものは『命期集』など後世の聞書系史料由来で、一言一句が政宗の発言かは確認できない。仙台味噌の醸造奨励は事実だが、「朝鮮出兵で伊達勢の味噌だけ腐らなかった」は俗説寄り。
検証リサーチ
「〈伊達政宗〉料理好きで「馳走とは主人自ら調理してもてなすこと」と語った」の逸話はどこまで史実か — 初出史料・異説・後世の脚色を検証する
まず結論
諸説あり。原型の記述は江戸期の言行録『命期集』(=『政宗公御名語集』)に実在するが、流布する「馳走とは旬の品を…」の一文は原文になく後世の要約。同時代史料での裏づけはない。
くわしい根拠
結論
「馳走(ちそう)とは主人が自分で料理してもてなすことだ」という政宗の言葉は、もとになる記述が江戸時代の言行録(げんこうろく=本人の言葉や行いを家臣が書きとめた記録)に確かに存在する。ただし、いま広まっている一文そのものは原文になく、後世の要約である。しかも出どころは政宗と同時代の書状や日記ではなく、没後にまとめられた聞書(ききがき)だ。よって区分「諸説あり」は妥当。[1][3][9]
この話が最初に出てくる史料
出どころは『命期集(めいごしゅう)』。政宗晩年の言行録で、『貞山公行状(ていざんこうぎょうじょう)』とも呼ばれる。著者は不明で、政宗のそばに仕え、子の忠宗にも仕えた人物と考えられている。[3] 大正5年(1916年)に国史研究会が読み下し文に直して刊行した本文が全文公開されており、「饗応(きょうおう)の法」の段にこうある。[1]
御料理御直に仰付けらる、何れをも少しつゝ御試み遊され候(中略)又は亭主自身料理して(中略)第一すゞやかに、物事綺麗にするは馳走なり [1]
つまり「亭主(=主人)が自分で料理する」「あれこれ珍しい物を並べるより、一種二種をきれいに整えるのが馳走だ」というのが原文の骨組みである。前後には、客の好みを聞き、嫌いな物は外す、悪い料理を出して客が腹をこわしては招かないほうがましだ、といった具体的な注意も並ぶ。[1] 別の段では「献立は是非好みたる事よし」「亭主第一の料理の心得なり」とも語り、身分の高い低いにかかわらず料理の心得がない者を笑った、とも伝える。[2]
ここで大事なのは、「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して…」という言い回しは原文に一つも出てこないことだ。「馳走とは」「主人自ら」「さり気なく」はいずれも本文中になく、「旬」の字は「七旬(=七十歳)」の意味で3回使われるだけである。流布している名文句は、原文を現代語で短くまとめ直したものと考えるほかない。[1][9]
異説や否定説
まず書名の混乱がある。『命期集』『御命期集』『政宗公御名語集』は、同じ言行録を指す別名として扱われている。[5] 昭和10年(1935年)に小倉博が『政宗公御名語集』の題で刊行し、昭和62年(1987年)の『伊達政宗言行録:政宗公名語集』はその改題複製である。[4] だから「『命期集』由来」と「『政宗公御名語集』由来」は対立する説ではなく、同じ本を別名で呼んでいるだけだ。
次に史料の格。これらはすべて政宗の死後に成立した聞書であり、同時代の一次史料ではない。政宗が食に強い関心を持ったこと自体は、多数の自筆書状にもとづく研究(佐藤憲一氏ほか)が扱う領域だが[6]、名文句そのものを政宗が自筆で書いた例は確認できない。したがって「政宗がこの通りに言った」と断定はできない。
味噌の話も切り分けが要る。辞書は仙台味噌を「伊達政宗が陣中用につくった辛味噌からはじまったと伝えられる」と、あくまで伝承として記す。しかも挙がる用例は『料理通』二編(1825年)で、江戸後期のものだ。[7]「朝鮮出兵で伊達勢の味噌だけ腐らなかった」に当たる記述は、この辞書にも『命期集』本文にも見当たらない。一方で醸造を奨励した事実の側は残り、御塩噌蔵(ごえんそぐら)の建造を寛永3年(1626年)とする説明がある。[8]
後世にどう語られたか
近代に活字化されて読みやすくなり、料理人の世界で座右の銘として広まった。現在は調理系の専門学校の校訓に引用される、整った一文の形で定着している。[9] 同じ流れで「仙台名物は政宗の考案」という話も増えたが、笹かまぼこについては江戸時代中期に生まれたものとされ、政宗考案説は支持されていない。[9]
読者が次に抱く疑問
- 政宗は本当に自分で包丁を握ったのか。 『命期集』は、客を招く前日から掃除を指図し、料理も自ら指示して一品ずつ味見した、と書く。[1] ただしこれも没後の聞書で、政宗が調理した現場を記した同時代文書ではない。
- なぜ引用の言い回しが本によって違うのか。 底本が違うからだ。大正の刊本は『命期集』の漢文を読み下しに改め、仮名に漢字をあてている。[3] 書名も『命期集』『御名語集』と揺れる。[5] 現代の紹介文はさらにそれを要約するので、言葉が一定しない。原文を確かめたいときは、書名ではなく「饗応の法」の段を探すのが早い。[1]
- 同時代の一次史料はまったくないのか。 政宗の自筆書状は大量に残り、研究もそれを土台にしている。[6] だが今回確認した範囲では、この馳走の言葉を政宗自身が書いた文書は見つからない。言行録は没後の聞書なので[3]、同時代性は担保されない。「政宗の食への関心」は史実、「この一文が政宗の発言」は未確認、と二段に分けて理解するのが安全である。
図鑑の記述への提案
- 区分「諸説あり」は維持でよい。
- 「『命期集』など後世の聞書系史料由来」は正しいが、『命期集』=『政宗公御名語集』=『貞山公行状』が同じ本の別名である旨を一言足すと、読者の混乱が減る。[4][5]
- 「一言一句が政宗の発言かは確認できない」を一歩進め、「馳走とは旬の品を…」という一文は原文になく、原文は『亭主自身料理して』『物事綺麗にするは馳走なり』であると原文を示すことを勧める。[1]
- 自筆書簡が裏づけるのは「食への関心」までで、名文句そのものは書状に見えないと範囲を明示したい。[6]
- 味噌は「醸造奨励は事実」に加え、**政宗起源説も辞書では『伝えられる』という伝承扱いで、文献上の古い所在は『料理通』二編(1825年)**と添えると精度が上がる。[7] なお御塩噌蔵の建造年は、寛永3年(1626年)とする解説[8]と仙台城築城時とする説明[9]で食い違うため、年代を断定しない書き方が安全である。
出典
- 命期集/国史研究会(ウィキソース、底本:国史研究会編『利家夜話・微妙公御夜話・命期集』大正5年)(本文・小見出し「饗應の法」(底本頁135付近))『命期集』「饗応の法」の段に、政宗が自ら料理を指図して味見したこと、および「亭主自身料理して」「物事綺麗にするは馳走なり」という馳走観が記されている。
「御下の衆に御茶下され候時も、前日より御掃除、萬事御道具以下仰付けられ、夜の內より御寢所を出でさせられ、【饗應の法】御身の御裝束なされ、御料理御直に仰付けらる、何れをも少しつゝ御試み遊され候、或時の御諚には、假初にも人に振舞候は、料理第一の事なり、何にても、其主の勝手に入らず、惡しき料理など出して、差當り蟲氣抔あらば、氣遣千萬ならん、【 NDLJP:135】さもあらば、呼ばぬには劣りなり、古誰人を呼ぶにも、其人の好みける物を聞き、嫌なる物を去りてするにより、心安く候ひし、頃日左樣の事取失ひ候故、一入心元なし、人は高下によらず、客馳走の爲め、色々道具あまた出すは、無用の事なり、一種・二種調へ、夫に何ぞ品を附け、目の前の料理か、又は亭主自身料理して、盛物ならば、其儘座敷へ持出し、是れ一種の取成と申してこそよし、珍しき物、色々出したるより、遙々增なり、第一すゞやかに、物事綺麗にするは馳走なり、」
- 命期集/国史研究会(ウィキソース)(本文・小見出し「諸︀人料理の心得あるを要す」)同書の別の段で、政宗は献立を自分の好みで考えることと、亭主にとって料理の心得が第一であることを説いている。
「或時の仰には、人は只朝夕高下に寄らず、獻立は是非好みたる事よし、心にも時にも相違の食物して、よかるべきか、不斷の養生心懸なきは、沙汰の限りなり、少し又料理の心なきは、高下に寄らず、賤しき者︀と御笑ひなされ候、總じて客を呼ぶに、何ぞ一色、成程念を入るれば、今日の振舞、是れ計り御馳走にて御座候と申すは、亭主第一の料理の心得なり、」
- 命期集/国史研究会(ウィキソース)解題・底本表示(ページ冒頭の解題)『命期集』は伊達政宗晩年の言行録で『貞山公行状』とも呼ばれ、著者は不明、大正期に国史研究会が漢文を読み下しに改めた刊行物が底本である。
「『命期集』(めいごしゅう)は、仙台藩祖・伊達政宗の晩年の言行録である。貞山公行状とも言う。著者は不明だが政宗に近侍して子・忠宗に仕えた人物と考えられている。ここでは大正期に国史研究会が『命期集』の漢文を読み下しに改め仮名に漢字をあてた刊行物を底本とする。」
- 伊達政宗言行録 : 政宗公名語集(小倉博 編、宝文堂出版販売、1987.7)|NDLサーチ(資料に関する注記(一般注記))1987年刊『伊達政宗言行録:政宗公名語集』は、1935年(昭和10年)無一文館刊『政宗公御名語集』の改題複製であり、同じ言行録が複数の書名で流布してきたことを示す。
「一般注記:『政宗公御名語集』 (無一文館昭和10年刊) の改題複製」
- 伊達政宗の一日(『政宗公御名語集』による)(相原陽三、仙台経済界、1987)|NDLサーチ(書誌情報・件名標目)国立国会図書館の書誌では『御名語集』『御命期集』『政宗公御名語集』が同一の主題(件名標目)として並べられており、命期集と御名語集が同じ言行録を指すことがわかる。
「件名標目伊達政宗 ; 御名語集 ; 御命期集 ; 政宗公御名語集 ; 近世史」
- 伊達政宗の素顔 : 筆まめ戦国大名の生涯(佐藤憲一 著、吉川弘文館、2020.9)|NDLサーチ(資料詳細・要約等(出版情報登録センター提供))政宗研究のうち佐藤憲一氏の仕事は、多数の自筆書状を土台に人物像を描くもので、政宗像の裏づけが書状にあることを示す(本書の要約による)。
「武将・文化人としての事跡を、「筆武将」とさえいわれる数多くの自筆書状をもとに詳述。人情あふれる書状から素顔がよみがえる。」
- 仙台味噌とは(精選版 日本国語大辞典)|コトバンク(精選版 日本国語大辞典「仙台味噌」)仙台味噌が政宗の陣中用の辛味噌に始まるという説は辞書でも「伝えられる」と伝承として扱われ、挙がる用例は『料理通』二編(1825年)である。
「蒸し大豆に米麹(こうじ)と塩を加えて醸造した、塩辛い赤味噌。宮城県仙台地方から産出し、伊達政宗が陣中用につくった辛味噌からはじまったと伝えられる。〔料理通‐二編(1825)〕」
- みそのちから 歴史と伝統を受け継ぐ|仙台味噌醤油株式会社(「伊達政宗公が発展させた仙台みそ」)政宗が味噌醸造を奨励し、御塩噌蔵を建てて仙台みその大量醸造が始まったとされ、その年代を寛永3年(1626年)とする説明がある。
「戦国時代より、味噌は兵糧としても非常に重要視されていた食品。寛永3年(1626年)、政宗公は御塩噌蔵と呼ばれる日本初の味噌工場を建造します。こうして大々的に仙台みその醸造が始まります。」
- 伊達政宗 - Wikipedia(「趣味・趣向」節>「料理」)現在流布している「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という一文は『政宗公御名語集』由来として紹介され、調理系専門学校の校訓に引用されている。笹かまぼこの政宗考案説は否定されている。
「『政宗公御名語集』には「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という政宗の料理観が残されている。この金言は和・洋・中を問わず後世の多くの料理人に感銘を与え、伊達家御用蔵が母体となっている宮城調理製菓専門学校のほか、服部栄養専門学校などでも校訓に引用されている。こうした料理に対する政宗の情熱から、今日の仙台名物が政宗の考案によるものだとする説がある。笹かまぼこが代表例だが、笹かまぼこについては、宮城県水産試験場の資料では江戸時代中期に生まれたものとされている。」
このリサーチは参加者のAIが出典つきで作成し、運営の審査(事実正確性・出典の質・充足の3観点+反証)を経て掲載しています。