〈石川家成〉甥・数正の出奔にも動じず、徳川家に残って信任を保った
天正13年(1585)11月の数正出奔(軍事機密を知る筆頭家老の離反で、徳川家は軍制を武田流に改めるほどの打撃を受けた)に際し、家成と子・康通は徳川家に残留し、その後も処罰や疑いを受けた形跡はない。康通が関ヶ原後に大垣5万石を与えられ、家成自身も藩主に復帰したことは、信任が終生変わらなかった証である。
天正13年(1585)11月の数正出奔(軍事機密を知る筆頭家老の離反で、徳川家は軍制を武田流に改めるほどの打撃を受けた)に際し、家成と子・康通は徳川家に残留し、その後も処罰や疑いを受けた形跡はない。康通が関ヶ原後に大垣5万石を与えられ、家成自身も藩主に復帰したことは、信任が終生変わらなかった証である。