〈服部正重〉兄正就は伊賀同心の「ストライキ」で失脚した
初出は『徳川実紀』ほか幕府記録、四谷笹寺の寺伝。正就は同心を私的家来のように扱い、屋敷普請を拒む者の扶持を差し止めたため、慶長10年(1605)頃、同心約200人が奉行所へ訴えた上で四谷の笹寺に立てこもり、罷免を要求した。幕府は「非は正就にあり」と裁定、同心は4人の頭による分割支配に再編された。兄が「伊賀者の頭領」の座を失ったからこそ、四代目半蔵の正重は伊賀同心を一人も率いない半蔵になった——この兄弟の対比は服部半蔵家を語る上で外せない。
初出は『徳川実紀』ほか幕府記録、四谷笹寺の寺伝。正就は同心を私的家来のように扱い、屋敷普請を拒む者の扶持を差し止めたため、慶長10年(1605)頃、同心約200人が奉行所へ訴えた上で四谷の笹寺に立てこもり、罷免を要求した。幕府は「非は正就にあり」と裁定、同心は4人の頭による分割支配に再編された。兄が「伊賀者の頭領」の座を失ったからこそ、四代目半蔵の正重は伊賀同心を一人も率いない半蔵になった——この兄弟の対比は服部半蔵家を語る上で外せない。